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いつか声にのせて

「佐久間。ここ、誤字な。直しといて。」



自分のデスクでパソコンに齧り付いていると、背後から声をかけられた。

びくりと肩が揺れてしまう。

振り返ると、教育係の先輩が困ったように眉を下げながら笑っている。


「びっくりさせてごめんな。」


どちらかというと、過剰なほどに驚いた私が悪いのに謝らせてしまった。

慌てて立ち上がり、ぺこぺこと頭を下げる。


「っ、〜。」


謝罪は口にしたつもりが、やっぱり私の口から声は
出てこない。



昔から人前では声が出にくくなる。

子どもの頃は、なぜ喋らないのかというその幼さゆえの純粋な疑問に随分と傷ついた。

喋らないわけでも、思うところがないわけでもないのに、いざ伝えようとすると声にならない。

自分のことなのにままならないことがもどかしく、いつも情けなさを覚えた。

その経験は余計に私の喉を凍らせていき、今でも、家族以外の誰かがいる場面で声を出すのは苦手だった。


先輩は優しくこちらを見て首を傾げ、私が何か言うのかと待っている。

けれども、どれだけ待ってもらっても声は出ないままで、待たせていることに焦り、焦れば焦るほど私の喉から声は遠のいていった。

悪循環に息が止まり、耳が赤くなってきたのが自分でも分かる。

冷や汗が背中を伝うのを感じながら目を泳がせていると、やっと小さく声が出た。



「・・・すみません。」


聞こえたかどうかも怪しいくらいの微かな音だったが、申し訳なさは伝わったのか、先輩は笑って頷いてくれた。


「でも、よく頑張ったな〜。今回の企画書はよく書けてた。直したら次の企画会議にあげてみるか。」


頭をぽんぽんと優しく叩かれる。

顔は上がられない。

今度は喜びと恥じらいで顔が真っ赤になっている自覚があった。


「あ、やべ。これセクハラか?」


向かいの席で一部始終を見ていた私の同期に聞く。


「完全に。でも青井さんと佐久間なんで、ギリアウトくらいじゃないっすか。」


「おい、どっちにせよアウトじゃねえか。佐久間ごめんな、許してくれ。お詫びにココア奢ってやるから。」


最後にもう一度、本当にすまんと謝って赤の入った企画書を私の机に置き、先輩が部屋を出ていく。

どうやら本当にココアを買ってきてくれるらしい。

遠ざかっていく背中を目だけで追いかけた。



ー好きです、先輩が好きです。



心の中はこんなにもざわめいて、こんなにも叫んでいるのに、声は自分の耳にすら届くことはなく、ただ、電話の呼び出し音や同僚のおしゃべりなどがいつものように聞こえてくるだけだ。

日常の音に心を落ち着け、熱くなった頬を必死で冷まそうとしている私を見ながら、しらけた目をした同期が呟く。


「あの人、いまさら何言ってんだろうね。」


先輩が私の頭を撫でるのは実はこれが初めてではない。

私の想い人は、距離感が少し馬鹿なのだと思う。

この人は、私がいい大人の異性だということはたぶん忘れていて、彼にとっての私はさしずめペット、よくて妹なのだろう。

それくらい気軽に、自然に私の頭は撫でられていく。

初めて頭を撫でられたときには少しばかり浮かれもしたけれど、その次の日、この目の前の同期にも同じように手を差し伸べたのを見て、期待しないでおこうと決めた。

ちなみに、この同期は頭に先輩の手がかかった瞬間に振り払い、以降一度も聞いたこともないような低い声で「やめてください。」と訴えていた。


「お前もね、伝えないと永遠に気付いてもらえないよ?あの朴念仁系距離感バグ男には。」


-分かってるけど無理なの。

 

声の代わりに目で訴える。

 

―意気地なし。

 

声にはしなかったが、半眼になった同期の目がそう言っているのが分かった。

この同期は私の声ことを承知していて、それでも話しかけてくれるし、返事がなくても気にしない。

一度、なかなか話せなくてごめんと言ったときにも、目を見たら何を言いたいか大体分かるから別にいいと言ってくれた。

そんな同期は私が先輩を好意を寄せていることを、一度も教えたこともないのになぜかやっぱり知っていて、ことあるごとにこうして発破をかけてくる。

 

二人でにらみ合っていると、死角から目の前にココアが差し出された。

また肩を揺らして振り返ると、悪戯が成功した子どものようににやりと笑う先輩がいた。

 

「はい、ココア。お前らは相変わらず仲がいいな。」


「あ、ありがとうございます。」

 


温かい缶を受け取って、両手で包み、小さかったけれどお礼がすんなりと声になったことにほっと息を吐く。

同期の半眼の目は、今度は私の背後に向けられていた。

  

「今のはどちらかと言うと喧嘩だったんですけど。」

 

「喧嘩するほどとは言うけど、黙ったままで喧嘩できるならむしろ仲いいどころじゃないだろ。何が言いたいのか分からなかったら喧嘩もできないからな。」


そう言った先輩は、私の背後からもう一度手を伸ばして、ココアを握りしめる私の手を優しく開いて小さな包みを置く。

  

「これ、おまけ。俺もいけると思うから、今度、俺とも喧嘩しような。」

 

 

触れられた手をそのままに固まる私は、にこりと笑った先輩が自分のデスクに戻っていく背中を今度は呆然と見送り、やっと冷めたはずの頬がじわじわと熱くなっていくのを感じた。

 

 

「やっぱりいつかちゃんと言えよ。」

 

 

覚悟ができたらでいいからとパソコンに向き合い直した同期が言う。

私は赤くなった顔を隠すようにうつむいたまま小さく頷いた。

 

 

目線を落とした手のひらには、いちごみるく味の飴がひとつ、コロンと乗っている。






こちらはまたまたPJさんたちが何やら楽しいことをされているご様子なので参加させていただくものです。