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『極限の思想 サルトル』-運命は知と非知のはざまに潜んでいる。選択が非知の深淵を運命というかたちで引きよせる-


 サルトルを読み始めたのはいつだったのか、遠く昔のように感じる。本書を読みながら身の回りに日々何かが起こる。サルトルの文章が変化を齎すのだろうか。

私の気質に変化はないが、私は少しもの圧迫や重力の絡まり、その侵入を瞬時に感覚する。故にそれらを消滅させたり、緩ませ、ほどいて、その場から逃げたいと思うのだ。

 他者のそれらで自分は苦しみたくはない。
 私自身に苦はない。わたしである故の苦。


 私の中に刻まれたコードが契機であることは十分承知だが、侵入のその他者の全てを対処・処理することは不可能なのだ。

これまで様々な術を施して来た。
手探りの試行錯誤のなか、これ以上の結界はないと思いながら幾度も破られ、それ以上のモノを張りつつ凌いできた。

然しながら今回ばかりはもう真にこれ以上のものはない。

また次にそれに見舞われたとき私はどんな行動を起こすのだろうか。自身でももうこれ以上の術は皆目見当たらず、だ。

私のことだ、自由を求めることは長けている。きっと対処する策がわかるだろうと思う。

 その中でサルトルは、私の行動や思考、その構造が正しいと言ってくれていた。私にはとても心強かった。

ーー

今日も本書を抜粋する。

数日前につぶやきで挙げた、私にとって最も重要な項目である。

獲得されるべき自由、状況のなかの自由

永遠の相のもとに」見られるならば、自由そのものも一本の枯れ枝にすぎない。じっさいスピノザのもとでは自由が神、すなわち自然のふところのなかで枯れはてているのだから。およそ「与えられた自由などというものはない」自由とは獲得されるべきなにものかである。

P180

人間には本質が存在せずおよそ「人間《性》」などというものはない。人間はただ常に「《状況においては》存在である」。自由は人間にとってしたがって、状況のうちにある自由となる。

P180


2 人間的行為における自由と状況

 奇妙なことに、これまで見渡しうるところ、ひとは決定論と自由意志をめぐって、行動という観念自身のうちに含まれているさまざまな構造をあらかじめ解明しようとすることなく議論をつづけてきて、そのさい、一方もしくは他方のテーゼに都合のよい実例を引きあいにだすこともできたわけである。

行為という概念のうちに含まれているのは、実際のところ、それに従属している数多くの観念なのであり、私たちとしてはそれらの観念を組織的に検討し、秩序づけてゆかなければならない。

P181

意識に直接与えられたものをめぐる試論
機械論(決定論)と力動論(自由論)

・人間の活動にかんして対立するふたつの捉え方
 ・具体的なものと抽象的なもの
 ・単純なものと複合的なもの
 ・事実と法則

-ベルクソン-

これらの関係、「人間の活動」とその構造をめぐって、論点の先取りもしくは問題の見過ごしを認めてゆくことになるだろう。

サルトルによればまさしく、「行為という概念」が含んでいる階層的な構造、そこに従属している数多くの観念に関わるものなのである。 P182

行動の志向性──知と非知との交錯

 人間の行動によってもたらされるのは世界のありかたの変容である。あるいは行動するとは「世界の相貌を変様させること」である。

世界の様相を変化させるためには世界における事象の進行に介入しなければならず、事象の進行に介入するさいにはなんらかの方策を用いる必要がある

すなわち、世界の変容という「目的」に到達するための「手段」を講じることが必要となる。事象は相互に連鎖しており、その「鎖の輪のひとつ」にもたらされた変化は連鎖全体の変貌を帰結する。行動することをつうじて世界に生起するのはそうした複合的な変容であり、その変容によって「予測された結果」が産出される 。

 事象の連鎖が予測された結果を産みだす一方で、しかし他方おなじ連鎖の複合が、結果を予測から逸脱させる。たとえば、ドミノの列が
連なっていることで最後のドミノが倒されるが、その中途にあるドミノの間隔が空きすぎていることによって、ドミノの運動は停止してしまう。

ここでまず注目しておくべきは「ひとつの行動はその原理からして志向的である」ことだとサルトルは言う。

つまり行動自体が一箇の志向性をそなえており、行動においてはなんらかの状態が行動する者によって志向されている、ということである。

P182

 『精神現象学』がギリシア悲劇を範例として論じていたように、行動する者は「意識と無意識の対立」「知られたものと知られない対立」のうちにあり、「行為する精神は知と非知の対立のなかにある」

運命は知と非知とのはざまに潜んでいる

そればかりではない。行動する者の選択が、非知の深淵を運命というかたちで引きよせる

オイディプスは、じぶんの殺す者が父であり、みずから娶る者は母であることを知らない。「非知」もまた「なされたこと」を媒介する

行動の始まりにおいては隠されていたのが、行為そのものをつうじて白日のもとにあらわれる。

「なされたこと」のうちで自己の行為のみを引き受けることが「知の権利」にほかならない。

P184

180ページから184ページまで、人間の行動・行為における、志向性の概念が書かれている。とても重要な場面だった。

まず自分の志向性の中で、
自分の思考がなければ自由ではない。


 直接的に与えられたものに対しての行動・行為は、大抵において機械的(無意識)で、非知である。

自由意思は、それがなぜ与えられているのか、それをどのように自身は欲しているか、それに対する自身の身の置き方はどうするべきか考え行動することにある。

非知の部分を知に変換し、その行為に於いて権利がなければならない。
社会の中の自身の権利ではない。

自身の「知」における行為の中の権利だ。

 数多くの観念を与えられ従属し、その秩序に沿っている。と、まず、あなたはそれを知っているだろうか?

組織の中では当たり前であって、それが与えられた観念とも秩序とも思わないだろう。
欲だけを貪っている、欲望の選択のそれが権利で自由だと勘違いしている、誰もが奴隷なのだ。


 この宇宙の自然の中であっても奴隷なのだと、半年前に気づいた。スピノザの「自由が神、すなわち自然のふところのなかで枯れはてている」この言葉が私には刺さった。

どうしても従属しなければならないものが人間には与えられている。
・家族
・他者
・身体
・環境

これらは、どうしても逃れられないものである。

その中でどうすれば、無意識の欲望のもとでなく、自身の志向性のもとに、如何に意識的に行動することが出来るかであり、それを追求していくことが自由を求めることでもある。

 それが、「無化」である。

次回は「二重の無化」からまた見ていこうとおもう。

次回は、P184、
行動における「二重の無化」〜






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