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『極限の思想 サルトル』-行動における「二重の無化」とは空からの発想と自由意思-



 本書を読んでいると、一方と他方がよく出現する。然し、これらは大概「こちら側」の一方と他方である。

反対側や相手側の一方と他方も存在するだろう。ということを念頭におけば、相手の意も汲める。

自分の正しさはそれはそれでこちらに置いておくと、相手の言わんとする正しさが見えてくる。
それは、社会的正しさか、自身の性(さが)的正しさか、盲目的正しさかを見極められる。

それを踏まえて、自分はどう対応していくかであり、自分の在り方、正しさも見えてくるだろう。

 自他共に公平に否定する、対他と対自である。
自分を徹底的に無化すると、自分に残ったものと相手に有るものがわかり、慣れてくると、文間や対応している相手の想いのニュアンスも掴めてくる。

しかし、それらを鵜呑みにしてはならない。
表面はそれであっても裏側は異なるし隠されている。この外と内が、今回の「二重」という所以だろう。


行動における「二重の無化」

行動が志向的なものと呼ばれるには行動する者が「自らが、なにを為しているかを知っている」ことが必要である。

その場合にのみ行動した者は「ひとつの意識的な企てを志向的に実現した」と言うことができる。

とはいえ、行動するものにとって自らの行為の結果がことごとく知らされていることは必要ではなく、また可能でもない

P184、185

存在するものが、存在するものでありつづけて、そのほかにはなにものも存在しないのであるならば、「意識は不断に存在から存在へと差し向けられて」そこには何ひとつとして「非存在」が見いだされていない

非存在を発見する動機」さえ存在しない。存在するものは存在するもののみである。

行為の企図が生まれることで、意識は、初めて充実した世界から身を引き、存在するものの領域をはなれ、「非存在の領域」へと接近することができる。

行為するためには、非存在つまり、「無」が必要であり、が出現するためには、意識がその自由が、現前していなければならない。

P185

行動する者は「一方ではひとつの理想的な状態を現在は単なる無であるものとして定立しなければならず、他方でこの理想的な状態に対して現実の状況を無として定立しなければならない」

現在はなお不在の理想というひとつの無が定立され一箇の非存在に対してはそれ自身無であるものとして現下の状況が定立されなければならない。

P185、186


意識と自由──暫定的な回顧

ひとつの行為とは「存在しないものに向かう、対自の一箇の投企である。
行為をくわだてるために対自は、現に存在するものを否定し無化して、またいまだ不在であるもの、無を定立しなければならない。か
くして二重の無化が行動のためには必要である以上、「いっさいの行動に不可欠な根本的条件」とは、かくてまた「行動する存在者の自由」にほかならない。

P186

それではしかし、自由とは何か?

意識に内部は存在せず、意識の内側とは端的に無
に他ならない。

意識は対自存在であるかぎり、対自存在とはなによりも無そのもの。

対自とは(あらかじめ二重の無化がまとわりついている)、二重の無化である故に存在で充満した世界のうちに無を導き入れることができる

P186、P187

 存在するもののみだけしか見えず、存在するものだけを意識して自分の所有とするのは、より良いものをたくさん持っていた方が自分の利益になるということだろうか。

それでは自分に「気づく」ことは稀だろう。

存在するものを増やし続けるということは、自身の志向性は失われていくということ。その志向性とは欲求でしかない。存在するものとは「他」のことであり、それを蓄え肥やしていくと、もはやそれは自分ですらない。

 志向性が無でなければならないのは、無以外は自分以外のものが混入している。ということは、自分の発想でないものがあり、他者の志向が混ざっている。

「実現」においても、その理想が現在は無でなければならない。無から知を重ねていくことで実現可能となるわけで、こちらも他の発想が混入していたらその理論を見極め含めつつ再検討する「知」がなければならない。

自ら得たその「知」を行為の中で使う権利が、自分にはある。ヘーゲルのいう「知の権利」である。(「知」を見せつける権利ではない。)

 この二重の無化は、所謂、「ゼロからの思考」や、「空からの発想」といわれもする。

「空の意識」は少し異なり、自分の顕在意識自体を対自によりひとつひとつ全てを無化させ、自身自体では思うこともなくなる、常に顕在意識が空(から)の状態のことを「空の意識」というのだと思う。


 今回の本書の内容である無化は、仏教の「色即是空⇆空即是色」の説明のように思う。

「二重の無化」は料理に例えると、わかりやすいのではないかと思います。理想とする料理があるが、未だ自分にそれは不在である。それを実現するには、レシピを知り食材を入手して、ゼロから自らが作らなければならない。

料理とは「色即是空⇆空即是色」だと思います。創作料理が自身で出来る方はまさにそれで、

「知の権利」を利用した自ら行動する自由です。

存在するもののみがあり続けて、「非存在を発見する動機」がなければ、「自ら料理する行為」という企図(自由意思)は生まれて来ないでしょう。











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