入党
ヒトラーの人をひきつける吸引力とはなんだろう。この意識は全世界の国民に宿っている。吸い込まれ巻き取られそうなイメージがある。
運命の別れ道
転機
ニュルンベルク党大会の会場の図面をヒトラーに手渡す場面だが、シュペーアという個人を初めてヒトラーに認識された刹那の瞬間。
このときのことをヒトラーは覚えていた。
というのが次の場面↓
死の覚悟と死後の計画も抜かりないヒトラー。
彼もまた何かに取り憑かれる運命だったのだ。
ヒトラーもシュペーアもやはり、操られている媒体のように感じるし、彼らは自身でそれを感覚している節が垣間見れる。
触媒としてのヒトラー
人はなぜこのように盲目になれるのだろう。
見境がなくなっている。そのとき自分は自分ではなくなっている。信仰心と野望に塗れたゾーンのような即自だ。
少年時代に培った名誉心と支配欲、それが頭角を現し取り憑かれている。野望・欲望とはこんなにも恐ろしいものなのだ。
テッセノウ教授の理論の正しさ、学生時代に感銘を受け、教授の元で一心に勉強した想い、教授による英雄批判など、一つの欲望で木っ端微塵に砕かれている。
この欲望はとても大きいものだが、たった一つのものが膨大に絡まっただけなのだ。
しかし、たとえ20年後でもそんな自身を回想録として対自しているところが本書の面白さである。
魅惑的な魅力とは、隠された危険故に神秘性が高いのだと思う。この部分がヒトラーのもつ魅惑的かつ膨大なるエネルギーだ。歴史的にみても今も尚、ここが大きくトグロを巻いている。
前書『極限の思想』で、「哲学者は作家でなければならない」とサルトルによって書かれてあったが、しかし、建築家もまた作家である。シュペーア自身が書いたノンフィクションだと思うが、この獄中の手記がなかなか面白い。
対自、対自と前書で擦り込まれて来た上での、この『回想録』は何か意味があるのかもしれない。
サルトルと同じ年に生まれ、一年違いで死去したシュペーアとのシンクロ。今それを見ている自分とのシンクロがまた面白い。
サルトルの思想とはほぼ同じだったが、シュペーアは全く私とは似ていない、むしろ反面教師であり、違いを分析する対象。
Kindleにはなかった。
〈下〉も娘が所持しているので心配ないが、同じく年季が入っているのだろうと思う。