トゥガル、テクチュウ、ゾクチェン哲学、生体科学
ゾクチェンには、「テクチュウ」と「トゥガル」という教えがあり、合わせて「ニンティク」というが、法界には底がなく、心の全域は空でも有でもない。「顕現の起こる門が開く」、「眼」が現れ、現象化ありさまを如実に見届けることが出来る器官である。
『内部空間を観る眼』
セムニー目の前にありありとあらわれる。
『ヴァナキラー科学』
「ヴァナキラー神経学」
胎児のときに細胞分裂を起こしながら水の元素の力によって、微細な脈官が作られてくる。緑白色をしている、「カティシェル」と呼ばれる中には、血液もリンパ液も流れてこない。電子顕微鏡によってもまだその存在は確認されていないが、それによってゾクチェンの修行者たちが体験してきたものと矛盾なく説明できると考えた。
「カテシェル」の四つの眼
・普通の眼
・煩悩を生み出す眼
・原初的知性、悟りの眼
・無分裂・無妄想の眼
これらは俗に言う千里眼と似ている。上記に書かれていることは、「空」になってから行うか、または修行や教えなどに頼らず自然な状態であれば、空の意識となる過程と並行して、身体が勝手にそちらに動いていくのだと思うし、私はそうなった。
セムニーの状態は自他共に見えるのですが、それは1年半前に見えるようになった。雪だるまだったり、円錐の形をしていたり、自分で形態の設定も出来るが、最初に現れた時は設定などしておらず、御幼稚な私に合わせて雪だるまを顕示させたのではと思う。内観の可視化ですね。
潜在にある因果の業の状態も然りですが、これらの可視化は、あなたの妄想だと思われるかもしれませんが、私は妄想や創造が出来ないですし、自他共に、”現状の心“と“可視化されたゲシュタルト”は、一致していて正しいと判断できるのです。
GW中に、タタル・ギュルバなどのヨーガ、獅子や象や仙人のポーズで、本当にそのようなエネルギーの流れが起こるのか試してみたいです。
今回は「眼」ですが、五感全ての解説がもしかしたら待っているのかもしれないと思うと、GWは「精神の考古学」で埋められますね。中沢氏の当時の思考と、自分の「その時」の思考が重なり、本当に本書は面白いです。
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