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トゥガル、テクチュウ、ゾクチェン哲学、生体科学


ゾクチェンには、「テクチュウ」と「トゥガル」という教えがあり、合わせて「ニンティク」というが、法界には底がなく、心の全域は空でも有でもない。「顕現の起こる門が開く」、「眼」が現れ、現象化ありさまを如実に見届けることが出来る器官である。

『内部空間を観る眼』
セムニー目の前にありありとあらわれる。

『ヴァナキラー科学』
 「ヴァナキラー神経学
胎児のときに細胞分裂を起こしながら水の元素の力によって、微細な脈官が作られてくる。緑白色をしている、「カティシェル」と呼ばれる中には、血液もリンパ液も流れてこない。電子顕微鏡によってもまだその存在は確認されていないが、それによってゾクチェンの修行者たちが体験してきたものと矛盾なく説明できると考えた。

「カテシェル」の四つの眼
・普通の眼
・煩悩を生み出す眼
・原初的知性、悟りの眼
・無分裂・無妄想の眼


『イェシェ・ラマ』

獅子の坐法(法身の坐法)
法身の坐法は獅子の如し
端座して膝を曲げて二脚を前面で合わせ、気の動揺を停止させる。
身体をまっすぐに保つことによって、気は快適な状態で流れる。
頭部に軽い圧力を加え頸部を押さえることによって妄念を除去する。
両手の指を握ってこぶしをつくり、両脚を合わせたところに置くと
これによって四大の調律がおこなわれる。

像の坐法(報身の坐法)」
報身の坐法は臥せる象の如し
膝を曲げて胸のあたりに合わせると、楽と熟とが増長する。
両肘を地面につけて男性的(陽)と女性的(陰)の気の調和をとる。
両手のひらで顎を支え、粗大な気を取り除く。
両脚は甲を上にして後方に伸ばす・・・・・・

仙人の坐法(応身の坐法)」
応身の坐法は仙人の如し
膝を立てて座り気脈を調整する。
足は土を踏み、水の元素の影響を抑える。
背筋はまっすぐに伸ばして、気と心を自然法爾に保つ。
膝を胸の前に合わせて、火の元素の力を用いてイェシェを燃え上がらせる。
腹部を引っ込めることによって、妄念の流れを抑えることができる・・・・・・

P189、190

タタル・ギュルバ」には、
法身の坐法は獅子の如く/転倒恐怖を離れ/金剛の眼が開かれる。

報身の坐法は臥せる象の如し/法爾の真実を享受して/蓮華の眼が開かれる。

応身の坐法は/膝を抱えた仙人の如し/法性自ら顕現して/ダルマの眼が開かれる。

と書かれている。

これら三種の坐法を、一日のうちの時刻や修行場の地形や太陽の位置の変化などに合わせながら、代わる代わる用いてトゥガルは実修される。トゥガルの訓練に入ったら、いっさいの言語活動、いっさいの学習、いっさいの感情発動は禁止される。お経を読んだり唱えたりすることや、マントラを唱えたりするのも禁止である。暗い屋内を出て、外光の中に自分を晒すのである。すると内部空間からあの「ランプ」の光が現れてきて、外部空間である青空に瞬きを始める。

P191

これらは俗に言う千里眼と似ている。上記に書かれていることは、「空」になってから行うか、または修行や教えなどに頼らず自然な状態であれば、空の意識となる過程と並行して、身体が勝手にそちらに動いていくのだと思うし、私はそうなった。

セムニーの状態は自他共に見えるのですが、それは1年半前に見えるようになった。雪だるまだったり、円錐の形をしていたり、自分で形態の設定も出来るが、最初に現れた時は設定などしておらず、御幼稚な私に合わせて雪だるまを顕示させたのではと思う。内観の可視化ですね。

潜在にある因果の業の状態も然りですが、これらの可視化は、あなたの妄想だと思われるかもしれませんが、私は妄想や創造が出来ないですし、自他共に、”現状の心“と“可視化されたゲシュタルト”は、一致していて正しいと判断できるのです。

GW中に、タタル・ギュルバなどのヨーガ、獅子や象や仙人のポーズで、本当にそのようなエネルギーの流れが起こるのか試してみたいです。

今回は「眼」ですが、五感全ての解説がもしかしたら待っているのかもしれないと思うと、GWは「精神の考古学」で埋められますね。中沢氏の当時の思考と、自分の「その時」の思考が重なり、本当に本書は面白いです。




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