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「数字と計算」とラマヌジャン

<数字の起源>
数字の起源は約二万年前だという。1960年にナイル河源流のコンゴで発見された「イシャンゴの骨」と呼ばれるヒヒの腓骨に刻まれたモノが最古の数字であると言われている。
ちなみに、この頃には「原文字」は存在したかも知れないが体系化された「文字の出現」は約六千年前だと言われている。メソポタミアのシュメール人の楔形文字が残されている。

<計算の起源を示すものか> 
記録を残すためだけではなく、数字と数字の関係が分かる記述は約六千年前のメソポタミア文明として、楔形文字の中に残されている。これが、「数学の起源」を示すモノかも知れない。
 
現在の「1,2,3,4,5,6,7,8,9」の原形はインダス文明にさかのぼる文字の中にある。そして、時代とともに形も変化している。
 
そして、6世紀のインドにおいて数字の「0」が加わり、「記録を残すため」だけではなく「計算にも用いる」数字として広く活用されるようになる。
この数字を日本ではアラビア数字と呼んだりするが、アラビア語では「インド数字」と言う。
 
<算用数字の広がり>
計算にも用いるインド数字は、ヨーロッパでは13世紀に広まる。当時、高名であったフィボナッチ(1170~1250)の「算盤の書」(1202)に依ると言われている。
それに対して、漢字文化圏では、インド数字は19世紀になってようやく広く用いられるようになる。
日本でもインド数字は「算用数字」と呼ばれて、明治になってから広く用いられるようになった。
 
 現代人からすると当然であるが、数字は「計算の道具」でもあり「記録を残す文字」でもある。
 しかし、江戸時代において「計算の道具」はソロバンであって、「筆算」と呼ぶ計算方法を庶民は知らなかった。
 
(関孝和は算木を用いる天元術を改良し、傍書法を用いた点竄術を発明した。これは「筆算」の一種であるが今日の「筆算」とは異なるものである。なお「点」は残すという意味があり、「竄(さん・ざん)」は除くという意味である。)
 
それゆえに、明治期からはインド数字のことを「筆算」にも用いることができる「算用数字」と呼ぶようになる。
 
<計算の道具>
 もちろん、「計算の道具」は時代とともに変化する。今日では「電卓」や「コンピュータ」で計算し、その結果を記録するのが数字である場合が多くなってきた。計算方法も複雑になり、桁数も大きくなっているからである。「5兆円」の防衛費予算の算出などを想像すると分かるかも知れない。
 
数字と計算の関係は興味深い。インド数字は十進法であるが
今日では、「二進法」や「十六進法」による数字が重要視されている。どちらも、コンピュータにおける計算に用いられている。
 
<文字をもたない言語のように>
 記録にも計算にも用いられている数字は、記録にも思考にも用いられている言語であり文字の一部である。
 そこで、文字をもたない言語が存在するように、計算結果を残さない、記録に残す数字をもたない「計算」の存在について考える。このような計算は原初的な「数学」と言えるのではないか。
 
その内容として「加法」と「減法」が含まれていることは容易に想像される。
 また、「分配する」という生活行動に関わる「除法」の存在も想像される。
 
 計算の結果ではなく、計算そのものは記録に残らないことが多い。しかし、計算の結果が記録として残っていれば「計算そのもの」の様子についてもある程度のことは知ることができるかも知れない。
 
 一つの例として、「エジプト式分数」がある。古代エジプトのリンド・パピルスに残されている、「分子が1」である単位分数と、その和で表される分数を見ると、「計算そのもの」の様子が垣間見られる。
 
 エジプト式分数では「1/2」と「2/3」が特別な分数で、他の分数は異なる単位分数の和で表して用いていた。
そのために、分子を「2」と定め、分母が「一から百一」までの分数についての単位分数和の一覧表が残されている。
 
 その表では「2/5」は「1/3+1/15」と書かれている。この式を「分配する」という生活行動で読み解くと、「2個のパンを5人で等分」するために、2個のパンをそれぞれ3等分する。すると、6片になるので、それらを5人に一片ずつ与える。残りの一片を5等分して、「1/15」ずつ与える。これで5等分されたことになる、というのである。
 
 また、その表には「2/15」が「1/10+1/30」と記載されている。
これも「2/5」と同様に、「分配する」という生活行動で読み解くことができる。(2個のパンをそれぞれ十等分にして二十片にして十五人に分け・・・)
 
<生活経験に根ざす数学からの抽象化>
 このような「分配する」という生活行動に根をもつ数学(分数)が始原であることは間違いない。しかし、数学はそこにとどまらないのである。
 リンド・パピルスでは、「2/3=1/2+1/6」という式を用いて、分母に「5」を掛けると「2/15=1/10+1/30」になることが分かっていたというのである。
 
 驚くことに、(素朴な意味での)素数という概念があり、「乗法」という演算を用いて、「15」は「3×5」と分解できることを知っていたのである。
 
 なお、古代エジプト式分数より古い時代には、「1/2^n」という分数だけを用いていたという。このことを基に、乗法も「2倍」、「4倍」、「8倍」という時代を経て、紀元前1650年頃には今日に近い「乗法」が演算として定着していたと考えられる。
 
<すでに古代エジプトでは>
 すなわち、古代エジプト式分数の記録を読み解くと、「加減乗除」という四則演算を伴う数学が存在していたことが明らかになるのである。しかも、基本分数の和に直す方法は一種類ではなく、分母が素数の場合、合成数の場合など数種類にわたるという。
 
 古代エジプト式分数には多くの欠点がありながらも、豊かな数学の世界が存在していたのである。それは、複雑ではあるが魅力的でもあった。
 それで、古代エジプト式分数は、ヨーロッパの一部では17世紀まで使用されていたという。そして、現代数学においても未解決な問題が発展的に提示されている。
 
 「2/n」を単位分数の和で示すことは一種類ではない。三個の和で示すより二個の和で示した方がよいのか?それとも、分母の数字が大きいより小さい方がよいのか?その評価にはどんな意味があるのか? そんな未解決な問題も残されている。

<豊かな古代エジプトの数学> 
 ここでは、古代エジプト式分数の豊かな数学の世界を覗いてみることにする。
 例えば、「2/13」を二個の単位分数の和で示すと①「1/7+1/91」となり、三個の単位分数の和で示すと②「1/8+1/52+1/104」となる。
 ①については、次の恒等式で「m=6」として求めることができる。
   → 2/(2m+1)=1/(m+1)+1/(m+1)
 
 ②については、次の恒等式が参考になる。(A=8とする。)
   → 2/p=1/A+(2A−p)/Ap ただし、p/2 ≺ A ≺ p 
 
 また、「1/n=1/(n+1)+1/[n(n+1)]」という恒等式が成り立つことを思い出せば、単位分数は二個、四個、・・・と増やすことができることが分かる。
 
 また、「2/15」の場合は前述のように、分母が「3×5」と因数分解できる。このような場合は次の恒等式を使うこともあった。
 → 「2/pq=1/aq+1/apq  ただし、a=(p+1)/2
p=3, q=5, a=2 とすると、前述の式になることが分かる。
 また、さらに「2/p=1/p+1/2p+1/3p+1/6p」という恒等式も知られていて、分母が大きい素数の場合などに用いられていたという。(例えば、分母pが百一の時など)
 
<現代数学にまでつながる>
 一つの分数を単位分数の和で表す問題は、中世ではフィボナッチの研究が有名である。
 また、現代数学においては、2より大きいnに対して次の式は整数解をもつだろう、という①エルデシュ=シュトラウスの予想や②シェルピンスキーの予想は未解決である。
 → ① 4/n=1/x+1/y+1/z
 → ② 5/n=1/x+1/y+1/z
 
 なお、「1」を単位分数の和で表す問題はパズル的で面白い。
例示しておく。
 1=1/2+1/3+1/6
 1=1/2+1/4+1/8+1/12+1/24 ・・・・(分母の和が五十)
 1=1/3+1/4+1/6+1/10+1/12+1/15・・(分母の和が五十)
 
<ラマヌジャンの数学>
途中の計算そのものにこそ「数学の世界」があるのに、それを記録に残していない例として古代エジプト式分数を取り上げた。
同じような印象を受けている一人の数学者がいる。
それはインドの数学者ラマルジャン(1887~1920)である。
 
ラマヌジャンは南インドで貧しいけれどもカーストでは最上位であるバラモン階級に生まれた。母親はバラモンとしての誇りと厳格な菜食主義を息子に貫かせた。
15歳の時に「純粋数学要覧」という数学公式集に出会い没頭するようになる。そして、奨学金を得て大学に入学するが、数学に没頭するあまり学位認定試験に落第し、中途退学する。
その後は独学で数学を研究し、その成果を「ノートブック」に記録する日が続く。
 
1911年にラマヌジャンの「ノートブック」を見た大物官僚がポケットマネーで「月に25ルピー」を与えるようになる。そして、処女論文「ベルヌイ数の諸性質」がインド数学会誌に載り、名前が知られるようになる。
 
その後、1912年から港湾事務所の事務員として働きながら、数学の研究を進める。その成果を大学の数学教授に送るが黙殺される。
ところが、ただ一人、ケンブリッジ大学の高名な数学者であったゴドフリー・ハーディがラマヌジャンの才能を見抜き、ケンブリッジ大学に招聘する。
ラマヌジャンは1914年にイギリスに渡る。しかし、イギリスの生活に馴染むことができず、体調を崩して病気になり、1919年3月、インドに帰国し翌年に死去する。
 
イギリスでラマヌジャンは40編の論文を書いた。渡英前の数学的発見は三冊の「ノートブック」に記録されており、帰国後の「ノート」も見つかり解読が進められた。記録されていた定理や公式の数は3254個と言われている。
 
定理などの解読は1997年頃までに終わるが、全文の出版は2018年に完了したという。
ラマヌジャンの人物伝としては藤原正彦の「天才の栄光と挫折」(新潮選書)が詳しい。
 
ラマヌジャンの数学人生を見てわかるように正式な高等数学の教育は受けていない。それで、論理的な「証明」よりも啓示的な結果を「ノートブック」に記録することになる。それはまるで真偽さえ不明な「定理や公式の羅列」のように見えたという。
しかし、その「ノートブック」の記載内容は数十年先の数学であり、数十年後に解読される。そして、その先見性と独自性が明らかになったのである。

<タクシー数と楕円曲線>
一つの例として、タクシー数「1729」について述べる。
このタクシー数が突破口となって「9^3  +  10^3=12^3  +  1^3=1729」は「X^3  +  Y^3=A^3  +  B^3=1729」と一般化される。
 
つまり、・・・
「x^3  +  y^3=1729」の二個の整数解が(9, 10)と(12, 1)と考えたのである。(グラフで見ると分かる。)

そればかりではなく、「x^3  +  y^3=k(t)」と置いて
k(t)の値を変化させるといろいろな「楕円曲線」になることを見抜いたのである。 
k(t)の値を「1729」,「3000」,「700」にしたグラフは上のようになる。
(「3000」「700」は仮の値である。したがって、整数解は存在しない。)

 K(t)の値を「4104」にすると、二番目に小さいタクシー数になり、
「16^3 + 2^3 = 15^3 + 9^3」となる。

<フェルマーの最終定理との関係>
このように、フェルマーの最終予想に「楕円曲線」から迫ろうとしたのは画期的なことであった。最終予想の証明に大きく貢献した「志村・谷川予想」は「すべての楕円曲線はモジュラーである」という予想であり、その発表は1955年のことであり、ラマヌジャンは四十数年先を走っていたことになる。

ラマヌジャンは渡英する一年前の1913年に「x^3 + y^3 = k(t)」が無数個の解を与える次のような公式を発見する。
→(6A^2−4AB+4B^2)^3+(−3A^2−5A^B+5B^2)^3=
                   =(4A^2−4AB+6B^2)^3+(5A^2−5AB−3B^2)^3

 例えば、「A=2, B=−1」とすると、「46683」は次のように二種類の三乗数の和となる。 → (36)^3+(3)^3=(30)^3+(27)^3

 さらに、「t=A/B」と置いて変形すると次の式になる。
→ (6t^2−4t+4)^3+(−3t^2−5t+5)^3=(4t^2−4t+6)^3+(5t^2−5t−3)^3
   → X^3 + Y^3 = A^3 + B^3


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