「仕事ができること」が私のアイデンティティでした

大学生活4年間、私はそのほとんどをサークル活動に注いできました。

実力主義のミュージカルサークル。より高いレベルで切磋琢磨する仲間と、楽しくミュージカルができる。入団当初はそんな淡い思いでいっぱいでした。

ただ、年に三回ある公演のオーディションは1年間全て落ち、キャスト同士で仲良く過ごす同期や先輩たちを見て、私は自分の居場所のなさを感じた。スタッフワークも学生で回すのも特色の一つだったうちのサークルで、私は居場所を作るためにスタッフワークに従事しはじめ、スタッフとしての信頼を得られるほどに。4年になった今では大きい仕事や引き継ぎも任せてもらえるほど信頼は厚く誰から見ても「仕事ができる」私。誇らしく、頑張ってきたからこそのその場所にもちろん充実感は感じています。

ただ一方で今でも思うこと。

「仕事が出来ない」私は"存在価値がない"

誰になんて言われようがどうしてもそう思ってしまうのです。

ただ楽しく活動をして、時には大事な会議を急に欠席したり、責任のないことを平気でする人たちもいて、それが私にはどうしようもなく息苦しくて。

無責任なことをしたいわけじゃなくて、楽しくない訳でもないけど、「仕事ができない」と居場所を得られなかったという思いが強い私にとって、「仕事が出来ない」のに居場所を得てのうのうとしてる人がどうしても眩しく見えて、完璧にやってきた仕事に対する誇りや自信よりもどうしてもそういう人たちへの歪んだ感情が勝ってしまって。


本当は役者として輝きたかった、って思いが強いのかもしれません。でもなにより「仕事ができる」ことが"当たり前"になってしまっているのが辛かったのです。あの子に任せておけば大丈夫。みたいな、やりがい搾取の極みを堂々とぶつけられて、やってしまうしやりたいんだけど、頑張ってるからこそそれが出来ることを見失って欲しくなくて。承認欲求の塊な私は、一見ただの褒めて欲しがりのかまってちゃんだし、実際それは否定しないけど、それでも誰かが認めてくれる言葉がなければモチベーションキープなんて出来なくて。

楽しくやってはいますが、時々誰かに言われる「ほんとに頑張ってるよね」にひどく心を救われて、その都度泣きそうになるのです。


あなたの周りにそんな人はいませんか?

できて当たり前を押し付けていませんか?

「頑張ってるね」「ちゃんと見てるよ」

その一言が、だれかの気持ちを救うかもしれません。


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