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秘密の新たな命

蒸し暑い午後、鈍い色のカーテンが風に揺れる。庭先の雑草は手入れをされることなく生い茂り、見慣れた景色もどこか色褪せて見える。
田中佳代子は、リビングのソファに腰掛けながら、ぼんやりとした目で息子の遊ぶ姿を見つめていた。
佳代子は長い黒髪の細身でスタイルの良い女性であった。
俗に言う「ヤンママ」と言う感じであろうか。
息子、拓真は小学校の低学年で、無邪気にプラスチックの車を転がして遊んでいる。

「お母さん、見て!この車、すごいスピードで走るんだよ!」

佳代子は微笑んでうなずくが、その微笑みの奥には隠しきれない虚無感があった。結婚してからというもの、日々の生活は平穏そのものであった。しかし、それは同時に退屈でもあった。家は小さいながらも持ち家であり、息子も健やかに成長している。傍から見れば、中流家庭の幸せな主婦と言えよう。だが、佳代子の心の奥底には、漠然とした不満がくすぶり続けていた。

夫の徹は大手企業に勤め、毎日のように遅くまで働いていた。家に帰ってくるのは深夜であり、週末も仕事に追われることが多かった。夫婦の会話は次第に減り、夫婦関係も冷え込んでいった。佳代子はもう一人子供が欲しいと思っていたが、徹の疲れ切った顔を見るたびにその話を切り出すことができなかった。

ある日、佳代子はスーパーで大学生の青年と出会った。買い物かごを持ちながら、ふとした瞬間に目が合い、何気ない会話が始まった。彼の名前は悠斗と言い、近くの大学に通う学生だった。彼は明るく、人懐っこい性格で、佳代子にとって久しぶりの新鮮な存在だった。

「毎日、大変そうですね。家事も育児も、仕事のようなものですから。」

悠斗の言葉に、佳代子はほっとした。誰かに自分の気持ちを理解してもらえることが、どれほど心の支えになるか、改めて実感したのだ。

次第に二人は親しくなり、何度か会うようになった。ある日、佳代子は思い切って自身の悩みを悠斗に打ち明けた。もう一人子供が欲しいが、夫が忙しくて機会がないということを。

「もし、僕で良ければお手伝いしますよ。」

悠斗の言葉は、冗談のように聞こえた。しかし、その瞳は真剣だった。佳代子は驚きつつも、心のどこかでその提案に惹かれている自分に気づいた。

その後、夫の徹が長期の出張に出ることが決まり、佳代子は決断した。息子を実家に預け、悠斗と共に旅行に出かけたのだ。旅行先は海辺の小さなリゾート地で、二人は現実を忘れるように時間を過ごした。夕暮れの浜辺で手を繋ぎ、静かな夜の海を見つめながら、佳代子は心から安らぎを感じていた。

やがて、旅行から帰ってきた佳代子は、悠斗との関係を終わらせることを決めた。彼に対しての感謝とともに、未来への一抹の不安を抱きながらも。

数ヶ月後、佳代子は妊娠していることを知った。夫の徹には、喜びの報告をしながらも、その子供の本当の父親については口をつぐんだ。徹は素直に喜び、家庭に対する責任感が増したように見えた。

新しい命が育まれる中で、佳代子の心には依然としてもやもやしたものが残っていた。それは、かつての退屈な生活に戻ることへの恐れと、新しい生命への期待が入り混じった複雑な感情だった。

夕暮れ時、佳代子はリビングの窓から外を見つめた。庭の雑草は今もなお生い茂り、鈍い色のカーテンが風に揺れている。彼女は手を腹に当て、これからの未来を思い描いた。その未来が幸せであることを願いながらも、その裏に隠された秘密が彼女の心を重くしていた。

佳代子の生活は、一見すると何も変わらないように見えるかもしれない。しかし、その心の中には、新たな命と共に生まれた秘密が、静かに、しかし確実に存在していた。

[おしまい]

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