『私』たちはいつから承認を求めるようになったのか

『承認欲求』という概念は現在では広く知られていると思う。わたしが所属している会社では新入社員研修で触れるし、ネット記事やSNSでも日常的に目にする。

 この承認欲求というものはいつ頃から人々の心に棲みついたのだろう。

 軽く調べてみるとマズローとかアクセル・ホネットだとか、ヘーゲルの名前が出てくる。言葉としての起源は18世紀辺りになるのだろうか。250年程の歴史、なんだかとても若い概念に感じる。


 哲学者や心理学者が発見する前はどうだったのだろうか。古代の吟遊詩人や劇作家はどう捉えていたのだろう。神話や伝承の中に承認欲求は描かれているのだろうか。

「親兄弟に認められたい」というのはありそうだ。でも、それは「たくさん『いいね』されたい」とか「フォロワーが減ると落ち込む」といったSNSを通じて顕在化する、現代の肥大化する承認欲求とは異質に思える。

 どうも承認欲求というものはある時期を境に人類が獲得したなにかと引き換えにかかってしまった呪いのように感じられる。


 相手の顔が見えるうちはまだいいのかもしれない。家族とか、クラスのみんなとか、仕事仲間といったある程度『私』との関係ができている人たちとの間での相互承認だ。

 限定された特定の集団の中で行動を起こせば、コンテクストを共有した人々からの反応が得られる。

『彼ら』は『私』という人間をいくらか知っているし、『私』に対して全くの無関心となるには相応のリスクを取らねばならない。

 相互かつ持続的で、容易に解消できない人間関係の中においては、自己中心的な承認要求は自重され、『私』の中で鎮められるのではないだろうか。

 だけど、現在は不特定多数からの承認を求めがちだ。現在の『彼ら』と『私』の間には関係の持続性が失われている。繋がりたい時だけアプリを開き、もし煩わしくなったら「ブロック」ボタンをタップすれば容易に断絶できる。

 もし、小さな村で隣人が突然いなくなれば、それは村社会にとって大きな事件だ。でも、SNSのコミュニティにおいては個人の自由を尊重するため、唐突な消失が容認されている。

 消え得る者たちからの承認を、『私』たちは求めている。


 たぶん昔の人はそんなこと考えていない。考える人がいたとしたらその人はきっと哲学者か芸術家になるか、腹ぺこで早死にしてる。

村人A「なぁ、俺ってこの世界にとってどんな価値があると思う?」

村人B「‥…知らんがな。ほうけてないで働け」

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