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いつも考え過ぎるぼく達が考えてきたこと。

突然だが、こんなことを言われた経験はないだろうか?
「それは考え過ぎだよ」
ぼくは言われた。幼い頃から今までずっと、色んな人に言われ続けてきた。
そしてぼくはごく最近までこの言葉の意図を掴めないでいた。だってそうだろう?「そのくらい考えりゃ分かるだろう」なんて言われたくない。考え過ぎるくらい考えるのが当たり前だ。考えて分からない事なんてあるはずない。ぼくは本気でそう思っていた。
ところがどうやら、そうでもないらしい。ぼくの得た気付きを伝えるためには、まずぼくが何を考え続けてきたのか説明しなければならない。今回の話はそこから始めてみよう。

たとえば数学のテスト。ぼくは60分の限られた時間のなかで、全く理解できない問題文をこねくりまわしてなんとか解答しようと思考し続けていた。終わってみれば、解答するための単純明快なヒントはテスト用紙の注釈に書かれていた。

たとえば職場。ぼくは仕事の納期までの限られた時間のなかで、全く理解できていない仕事をなんとか完遂しようと思考を巡らせ、その果てに盛大な失敗を何度も繰り返した。終わってみれば、そもそもの分業体制に不備があり、ハナから達成出来るはずもない仕事だった。

ぼくはいつも、追い立てられるように考えてきた。
考えて、考えて、考えて、『論理的』で『応用的』で『使える』人間であろうとした。
ぼくの視点からそのように見えた方々の行動の上っ面だけをなぞり続けた。
頭の中を突っ張らせ、視野を狭め、とにかく『今のぼくの手持ち』で問題を解決しようとし続けてきた。そしてそれらの試みは遂に一つも成功しなかった。
当たり前だ。ぼくがしてきた事は結局、現実の問題像の一部を切り取り、勝手に設定した問題点に独り善がりな解答を埋め込んでいただけなのだから。
(しかも都合のいい事に、この問題点は『今のぼくの手持ち』で解決出来るようになっていて、ぼくの安いプライドを満たすのに最適だった!)


ぼくに対する「考え過ぎ」というアドバイスの真意は、おそらくここだったのだろう。今のぼくが考えても分からない事なんて、山ほどあるに決まっている。時間も知識もなければ尚更そうだ。
まずは自分が分からない事を認め、自分が不完全である事を認めなければ、周りに見聞きして知る事などできはしない。
全能を気取る高慢こそが最も無能になり、無能を知る謙虚こそが唯一賢者に成り得る資格を持つのだろう。

学習、就業、ともかく課題に取り組む時、特別な知識や技能を持っている必要はない。無知で無能な、今のままのぼく達そのままでスタートしよう。
ただ一つだけ、『何も知らない』という謙虚の空箱だけを胸に秘めていれば、いつかその箱がたくさんの知恵で満たされる日が来るのだから。

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