建築用コラムヘッダ

建築は建築好きだけのものじゃない


どーも、おっちーです。
「建築を生かす」という主題の記事がnoteに投稿され、シェアが多くされています。

記事の内容については、ここではお話しませんが、多少ですが思うことがあるので、一言二言では無く文章として書かせていただきます。

一応建築の学校を出て、腐っても「建築士」として建築を「生む」ことで生活している立場から建築を生かす事、そして建築の価値についてお話させていただきます。

そもそも「生き残ること」が「価値がある」ことなのか?

まず「長く存在し続ける」ことが建築の価値なのでしょうか?

この紹介した記事で話題になっている「都城市民会館」という建物の理念である「メタボリズム」に関して説明します。

「メタボリズム」というのは日本が戦後の高度経済成長を進めている時代に起きた建築運動の事を言います。当時は世界が驚く経済成長を日本は進めてきました。その中で従来の建築に求められる「恒久性」では無く。爬虫類が脱皮するように、昆虫が変態する様に、そして人間含めた全ての生命の根源である細胞が日々入れ替わる様に、「代謝、成長」を建築に求めた運動でした。
(この代謝の意味がいわゆるメタボリックシンドロームとして残ってるんですね。)

代表的なものは黒川紀章のカプセルタワービルでしょう。
現在解体の動きが再燃しておりますが、この建物は居住空間であるカプセルが細胞の様に一つ一つ交換し、また場所も動かせるという趣旨で作られています。

つまりこの市民会館も含めたメタボリズム建築はずっとその場で固定される事、維持保全される自体を目的としてないのだと思います。

先ほどカプセルタワーを説明しましたが、この建物は配管の点検をするスペースがありません。
理由は簡単です。「維持管理では無く交換させるから」です。

そもそもこれまでの建築の価値として「残っている」という事が一つの指標となっていました。しかしこのメタボリズムという運動はその概念を否定し、絶えず変化することを選んだ事、建築の価値の転換であり、文化としての一つの「歴史」であり、それ自体が存在意義であると思います。

ではそれを今の状態のまま、騙し騙し保存する事を考えるとどうなるでしょう?少し言葉が悪いかもしれませんが、私はこの建物の存在意義を否定し、価値自体をむしろ冒涜していると思います。

私はこの節において「生かす」では無くあえて「生き残る」という言葉を使いました。建築として価値を持つのは役目を担いながら「生きて」いる事であり、それこそチューブに繋がれて延命する様に「生かされて」「生き残る」建築に価値を見いだせるか、私にはできません。

今回の取り壊しという顛末、それ自体もメタボリズムとしての一つのストーリーや価値なのでは無いか、そしてその一連の流れから学びとることの方が建築の未来を見据える上で大切な事ではないでしょうか?

建築の価値は普遍的では無く「選ばれたもの」なのか?

建築の価値って何なのでしょう?

私は建築を「生む」立場であると先ほどお話しましたが、その上で私自身の考えを述べさせていただくと。建築の価値は「利用者に使われる事」が一番であり、それに尽きると思います。私は建築保存の議論において常に疑問に思うのですが、「毎日の生活において利用している一般の利用者」と「研究、体験の目的で数度訪問した建築の評論家や建築好きな人」 どちらの考える価値が重要なのか? という事です。

私は間違えなく前者だと思います。私にとっての座右の銘は「建築は人の生活の器」です。建築は「建築好き」な人のためのものではありません。建築は使われて、日常の生活の一部になってナンボです。この価値観の違いを認識しない限り、この話は進みません。

またこの建築の保存活用議論に当たって必ずぶち当たる「ある価値観」にも私は常に疑問を感じています。
私はnoteやSNSにおいて他人の発言を切り取って揚げ足をとる様な行為は基本苦手で、自分でもしない様に心がけているのですが、今回は大変申し訳ありません、この記事に書かれている一つの言葉を引用したいと思います。

いまのところ建築の素養がある人にしか共有されていない、建築の見えない価値を可視化し、増幅させていくこと。
そのために、一人ひとりが建築に思いを巡らせ、発信すること。

この建築の素養を持ったある種「選ばれた人間」が共有する価値は建築に、いやこの社会には不要だと思います。

そしてこの傲慢な価値観自体が、建築のアカデミックや建築家そして「建築好き」と呼ばれる人たちと一般社会にいる人達との大きな溝であると思います。

建築という「もの」だけでは無くそこからの人の営みを伝えるには、これまでとは違うアプローチが必要です。更に既存の価値観を否定して生まれ変わる。それくらいのことが必要だと思います。なぜなら耐えず変化し続ける事こそが人間の営みなのですから。

一人一人の思いを巡らせることは必要ですが、少し口の悪い言い方をしてしまうと、建築関係者の中でも実務と無縁の頭でっかちなアカデミック、批評クラスタの傲慢な思いははっきり言って「要りません」。

私自身も建築に関わる人間として、この様な傾向を冷笑し、無視して目の前の建築行為にのみ集中してきたという意味では同罪です。
そしてこの問題に向き合わないと自分の飯のタネという意味でも建築の未来はありません。

最後におまけ、私自身がしていること、私なりにできること

先ほどの説の最後に述べましたが、ただ批判だけをしていてはこれまでと変わりません。
最後に私にとって何ができる、というより何をしているかをお話したいと思います。
私ごとではありますが、以前に南青山の児童相談所の問題から付随して、香川県立体育館の取り壊しに関する解説を動画として取り扱いました。

この動画は元々当時話題になっていた南青山の児童相談所から展開して、価値と建築を述べているものです。掴みとして当時ニュースを騒がせた話題を持っていき、その流れから多少無理やりではありますが、香川県立体育館の取り壊しの話題を広げていきました。これには私自身の意図があり、「日常の他愛無い話題に無理やり建築の問題を刷り込ませる」事を目的としました。おかげさまでニコニコ動画にて投稿したものの中にはこの問題に対していくつか新鮮な意見がコメントとして頂くことができました。
またそれ以外にも建築の一般的なお話を専門的なものをわかりやすく解説したり、映画といった身近な題材から建築を掘り下げる解説動画も作っています。


まだまだ微力ではありますがこう言った行動を続けることそれが「建築を一部の建築好だけのもの」にしないようにしていくきっかけに繋がると私は信じています。

考えることは大切です。しかしその前に本当に大切なこと、しなければいけないことを胸に止めることも必要なのでは無いでしょうか?

ではでは

追伸:おまけですが、私の独断ではありますがこの市民会館のスタンスを継承してると思うものを紹介します。仮に都城市民会館がなくなってもその意思が別のものに引き継がれ、それが無くなっても別のものに引き継がれる。その様な物語性も一つの「価値」では無いでしょうか?

天野エンザイム (岐阜)

黒川紀章先生の後期メタボリズム作品です。逆トラスを有効に使い、開放性のある空間を生み出してます。まだ研究施設としてはバリバリ現役で素材の使い方もより昇華されています。まさに正当進化系ですね。

動画も含め、建築を「伝える」「教える」コンテンツ、場を作る事を目標としております。よろしくお願いします。