2018/08/18 「大丈夫か?」

8時過ぎに目が覚める。
涼しい。25度と気持ちの良い気温に、空気もカラッとした、初の秋日。ゆっくり散歩できそうだ。体を起こし、すぐに出かける準備をする。気配を察知したビッケは大喜びだ。
パン屋さんで野菜サンドを買って、昭和の森へ向かう。
いくつかの田んぼでは、稲刈りが始まっていた。

帰宅してシャワーを浴びる。
ドアの向こうには、お風呂場には決して近寄らないはずのビッケの影。ドアを開けると一目散に入ってきた。風が強いせいで、家がやたらと音を立てている。怯え切ったビッケの尻尾は、すっかりしまわれている。洗い場はビッケの避難場所に譲ろう。空のバスタブに入って、ビッケにかからないよう、小さくなって髪や体を洗った。

病院へ向かう準備をする。ビッケはピタリとくっついて、一瞬たりとも離れない。こんなことは初めてだ。お留守番は…、無理そうだ。
病院に連れて行く以外、無さそうだ。

面会

「トイレに行きたい」

会って早々に、それは始まった。

(以下、排泄シーンの描写が少々含まれます。お食事中などの方は、<-- ここまで --> 以降へスキップをお願いします)

「トイレどこ?」
「どこに行ったら良いの?」

何度も聞かれるその度に、こう答えるしかない。

「今は歩けないから、オムツにして良いんだよ」

亮くんは、自力でトイレに行くことができなかった。ベッドに座ることも、iPhoneを持つことすらも、できなくなっていた。
術後に発生した悪性高熱症によって、全身の筋肉が「リセット」されてしまっていたのだ。

10万人に1-2人の割合で発生する、非常に稀な希少疾患、悪性高熱症。
運動すると体が温かくなるのは、筋肉の収縮が熱を生み出すから。悪性高熱症では、全身麻酔によって全身の筋肉が異常な収縮をし続け、筋肉は崩壊してしまう。体温は急上昇し、40度を超える高熱となることも珍しくない。(参考:全身麻酔の時だけに発症する希少疾患 - 悪性高熱症 -

術後、亮くんの体温は40度を超え続け、3日後には42度を超えた。2万を超えで筋崩壊とされるC(P)Kの値は、その日15万を超えていた。

「トイレに行きたい」のやり取りが続く。

「今は歩けないから、看護師さんが替えに来てくれるから、オムツにしていいんだよ」。しっかり伝えると、納得した感じを見せる。

「じゃあちょっと離れているからね」と、カーテンの向こうまで離れる。しばしして、カーテン越しに目が合う。「できた?」と少し間を開けて聞くと、「…やっぱり出ない、いいや」。「…わかった」と、再び側に行く。

その後もオムツをしきりに触っている。どうしよう、どうしたら良いだろう。考えあぐねていると、気づけば右手はその中へ。そしてその手は顔もとへ。手は汚れており、顔や服、指につけた脈を測るものも少し汚れてしまった。顔や手はさっと拭き、ナースコールを押した。

看護師さんがすぐに来てくれる。
「ビッケの散歩に行ってくるね」と亮くんに、「30分ほど外します」と看護師さんに伝え、外に出た。

遅すぎた。もっと早くに、私が席を外してあげればよかったんだ…。失敗した…。

看護師さんにあとで、「トイレ行きたい」の状況ではどうすると良いのかを聞こう。

結構落ち込んでいたけれど、ナホとちえちゃんにメッセージをもらい、下を向いていた頭が上がる。ビッケを散歩して復活。もう大丈夫。病室に戻ろう。

<-- ここまで -->

IN N’ OUT。
OUTが去って、次はIN。

「喉が渇いた」

亮くんはまだ、お水を飲むことを禁止されていた。

ベッド頭上にある酸素が出るやつを見て、「これ水出ないの?」。
「何か音楽聴く?聴きたいのある?」への返しは、「ミネラルウォーターの曲」(笑&泣)。

面会前半を通してのトピックは「トイレ」、後半は「どうしたらミネラルウォーターを手に入れられるのか」だ。

とは言え、リハビリ後で疲れている様子。終始うとうと、目は泳ぎ、あっという間に寝ちゃう。
そして、ふと目を覚ますと、「酵母菌Aと酵母菌B」の話が突如始まる(流行ってるとのこと(笑))。

やっぱり半覚醒なんだなと、その様子を見て思う。

あの日以来、初めてふたりの写真を撮った。ふたりの写真が欲しかった。

「セルフィー撮る?」
「セルフィー?」
「2人の写真だよ」

思いのほか嬉しそうに、乗り気になってくれた。

この写真が、今の私の宝物だ。

うとうとしている亮くんを眺めている。

6階の病棟から見える窓の外。目の前に見える赤十字。ピンク色に染まった夕焼け。
亮くん。亮くんの大好きなサンセットがきれいだよ。
亮くんは眠っている。

もう日が暮れる。ビッケも待たせている。

亮くんが少し目を開けた。
「そろそろ帰るね」と言うと、「いいじゃん、もっとゆっくりしていきなよ」と、引き止めてくれる。嬉しくて、「あ、じゃあ…♡」と、上がりかけた腰を落ち着けると、すでに目は閉じている。

眠っているのをしばし眺めた後、「そろそろ(本当に)帰るね」と声をかける。
「家に?」
亮くんが聞いた。

同じやり取りでも、昨日は「どこに?」だった。
それこそ義母の言う「薄皮をはがすように」良くなっている。嬉しさがじんわりと広がっていく。

.

運転しながら、何度もニヤニヤしてしまった。

「大丈夫か?」

今日とうとうそれが聞けたんだ…!

亮くんが私にかける言葉 No.1、「大丈夫?」。一日に何度、その言葉をかけてもらってきただろう。
ベッドで眠っていても、横で本を読む私が体勢を少し変えただけで、眠りながら「大丈夫?」と聞いてくるほどだ(マンネリ中にはこれを聞くと嫌になるという、今思うと超絶バチ当たりなときもあった)。

3週間ぶりに聞く「大丈夫か?」に、驚きと共に、言葉にならない大きな嬉しさが身体中に広がって行った。
「うん、大丈夫だよ」
噛み締めながら答えた。

何度も何度も、その感じを味わいながら、真っ暗になったいつもの田舎道をビッケと帰った。

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