見出し画像

黄色いおばちゃんから学んだ「対峙力」

最近、寺田有希さんx 鴨頭嘉人さんの対談をユーチューブでみて深くうなずいた。


寺田有希さんが出された本「対峙力」について対談していた。対峙力=ふたつの勢力が向かい合って立つこと、対立する者同士がにらみ合ったままじっと動かずにいること、など辞書には書いてあるんだけど、


そこを寺田さんは、


相手から逃げない、媚びない、委縮しない、相手を認め自分の事も認めてもらって話すこと。フラットに接する力と言っていた。


フラットな関係性


私も含めズンバに初めて参加される方で言われることが多いのが、


「踊ったことないから、どうやって踊ってよいかわからない。」「先生や経験者である皆みたいに上手に踊れない」「恥ずかしい」


この言葉の背景には、

社会的地位、このケースだと(先生と生徒)(経験者と初心者)

という若干なりとも上下の構図がはられている気がした。

先生・経験者=できる人、経験無し=できない人

踊りができるできないで言えば初心者は大抵できない。車の運転なども、みんな最初からできたわけではないし、それは当たり前である。だけど世間はわりと、

経験無し=できない=不安(卑下)

な構図がある気がする。


ズンバを教え始めた頃、無我夢中だった。まずはインストラクターが上手に踊れることが前提ととらえ、ズンバという新しいジャンルのダンスエクササイズを教えるという社会的地位で言えば先生から生徒という一方方向の心構えだった気がする。


一方、経験浅い+インストラクターとして皆をしっかり誘導せねばと思っていたので、心のなかは経験浅い=ほとんどできない=不安で、これできなかったあれできなかったと自己卑下ばっかりしてた。


でも、ズンバを教えて間もない頃だったかな。その頃年齢層若めの私達のクラス(20代、30代)に、カンボジア人の黄色いTシャツを着た見るからにオバちゃんが参加してきた。黄色がやけに目に映った。踊ったことないけど楽しそうだから参加してみると。前列に並んだ。


そのおばちゃんが、本当に踊れなかった。皆が右に行ったら彼女は左、リズムも皆と何テンポも違ってて一人違う踊りをしているようだった。とにかく笑えるぐらいに踊れなかったのだ。大胆に反対方向行ったりするから、時にはインストラクターである私も間違えそうになった。


それから毎回クラスに参加してくれた。それも前列で。向かい合う事多々。相変わらず動きはバラバラ。


でも、でも、でも


そのおばちゃんの凄いところは、傍からみたら踊れていないにも関わらずすんごい楽しそうだったのだ。めっちゃ楽しそうに前列で踊ってた。


あれだけ皆とあってないと、私だったら凹むし、人目を気にして続かなかったと思うんだけど、おばちゃんは関係なかった。好きなように踊ってた。


で、そのおばちゃん見てたら私も嬉しく・楽しくなっきた。踊りは滅茶滅茶でもおばちゃんの満面の笑顔から私はエネルギーをもらった。すると、私の踊りにエネルギーが入り、そのエネルギーが他の生徒さんにも伝わったのだろう。感覚としてクラスが明るい感じになり結果私はめっちゃハッピーになった


すごい!


おばちゃんパワーすごい!踊りのテクニックなんて関係なかった。私が間違えても下手でも関係ない。踊れる踊れないなんて彼女には関係ないのだ。彼女はその限られた時間、好きなように自分の時間を楽しむということを体現していた。


はっとしたのを覚えている。


そのおばちゃんとの出会いがあってから自分の踊りもかわった気がする。踊れる踊れないという物差しから、各々が好きなようにその時間を楽しむという物差しに変わった。ある意味本来のズンバの在り方であるんだけど、そこに一歩近づけた気がする。


自分が他のインストラクターさんや先生のクラスに出るときも、学べるものは学び、自分が心地良いと感じる範囲でめいいっぱい楽しむように心がけている。あの黄色いおばちゃんのように、私のパワーが、誰かのパワーになるかもしれないし。


先生=踊れる・教える 生徒=学ぶ (一方方向)

👇

先生=生徒、一緒に踊りながら学びあう


フラットに接する力=対峙力


黄色いおばちゃんから学んだこと。対峙力の大切さ。


今回のこの対談をみながら「フラット」という言葉が自分の中にすっと入ってきて、そうだ、私はフラットな関係性で生きたいし、そういう環境作りをしていきたいと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?