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【架空美容室】本日もいらっしゃいませ

【架空美容室】コーチのいるヘアサロンへようこそ


(これは私の妄想の中のお話です。

架空美容室を営み、さまざまなお客様と
コーチとして
美容師として
ひとりの人間として過ごしています。)

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今日もいらっしゃいませ

たったひとりのお客様へ

コーチのいるヘアサロン「架空美容室」へようこそ

今日はどのようなスタイルをご希望ですか?
なんて
聞きませんのでご安心ください。


どんな時間を過ごせたら来てよかったと思えるか

ここを出るときは
今と違う景色が少しだけ広がっている

ただただそんな通過点の場所です。

しばしお話しを聞かせていただきながら
自分と向き合い
その先に向かっていくために
どんなメニューがいいかを見つけていく時間です。

本日は少し昔の話を
のぞいていってください。


*


その日は
朝から夏が戻ってきたような暑さだった

夜中に通り過ぎた雨も
道の端っこに面影を残す程度で
すでに太陽に追いやられている

坂道の途中
振り向くと遠くの方では
いつものように海がキラキラとゆれて
秋の雲はまだまだ遠くで様子をうかがっている

3年前のあの日

「こどもが泣いてしまうかもしれません
それでもいいでしょうか」

電話の向こうでは
誰かがいるとは思えないような静けさで

途切れ途切れに聞こえてくるのは
泣いているみたいに
絞りだすような声だった


「わかりました
 明日もう一度ご連絡しますので
 少しお時間ください」

私はそう伝えて電話を切った

とうとうやろうと思っていたことが形にできる

ウキウキと弾む心臓は
少しばかりの不安と合わさり
足はもつれそうに坂道をくだる

目指したのは
このお店をオープンする前
一番気がかりだった息子の預け先となってくれた場所
保育園だった


園長先生は
「子育ては地域全体で行うもの」と
いろんなところにかけ合い
一時保育を受け入れてくれた


それから数年経ち
息子はもう小学生

今、やっと園に提案していた仕組みが
カタチになろうとしている

「お客様のお子様を一時的に預けられる場所」

規則というフィルターを
網の目をすり抜けるようにして段取りは進んだ


(いよいよできる)

お昼前の園は
とてもいい匂いを風にのせて周りを満たしていた




その人の額にも大粒の汗が光っていて

体には抱っこ紐が主人(あるじ)不在のまま
だらりと巻き付いていた

一枚一枚剥がすように
抱っこ紐、荷物、腕時計などをはずしていく

心もとない様子で
真ん中の椅子へと腰をかけた


私は一枚の紙に
ゆっくりとお名前を書き込む


「Cさん、とお呼びしていいですか?」

心地よい響きのお名前で
何度も呼びたくなる


名前は

一気に距離が近くなる不思議な音


汗をハンカチでおさえながら
少しだけ頬が柔らかくなっていくように見えた

「2年間も放置していたから、、
恥ずかしいです
とっても痛んでるし、、」

すまなそうな声は
つまんだ毛先に言い聞かせているようだった


まずは冷たいコーヒーでも

背の高いグラスに細めのストローを添えて
私も横に座る


「そうなんですね

えーとたしか
園で預かってもらえる時間は2時間ですよね

2時間かぁ
たっぷりありますね

お電話で話したように
髪を切るだけだったらうちでなくても
早くて上手なところはたくさんあります

せっかくなら
ここはCさんに考えてもらいながら
一緒に進めていく時間にしたいと思ってます」


アイスコーヒーのグラスを
もう一度Cさんの方に近づけながら
隣で鏡越しに映るその人を探した


「ここは
自分でも気がつかなった《本当の自分》を
一緒に探す場所です」


 「…

 自分でも気がつかなかった自分…」



「はい。

 どんな時間にしたいかも
 どんな自分になりたいかも自由です。

 ご自身で決められるよう
 ゆっくり考えていきましょう」


すでに汗をかき始めた背の高いグラスを手に取り
聞き取れるギリギリの大きさで声が聞こえてくる

それは
子育てのことで溢れていた

一生懸命に向き合い
楽しんでもいるという言葉

でも
ここにはまだCさんがいない

もう一度アイスコーヒーをいれにいく

しばらくすると
鏡の前では
紙に書き込む音が聞こえはじめた


自分と対話する


鏡の中にいるCさんは
今やっと自分を見ているようだった



 さあやりましょうか


シャンプー台へお通しする

細くやわらかな髪は
ところどころとても短い

もつれた髪を
シャワーの流れがほどいていくのを
ただゆったりと眺めた


 「…
  私
  ほんとは
  ずっとこんな時間が必要だったのかもしれません…」


 「そう
 わかっていたのに

 わかりたくなかった

 本当はずっと

 1人になりたかったってこと…」


指先が
髪の間を抜けて頭の輪郭をなぞる

「今はお母さんではなく

  Cさん、ですね」


時間の経過は
香りを何層にも巻き込みとけあっていく


かすかに聞こえる呼吸と共に
私の指はゆっくりと深海を一緒に泳いだ




 いいんだ
 こういう時間をあっても


 抱っこ紐だって
 肩が凝ったら下ろせばいい


 誰が責めているの

 誰が決めてるいるの


 たまには
 ママを
 お休みしてもいい



包まれる香りは
そう語りかけているかのようだ





カットした髪は
ちょうどあごのライン

切りっぱなし風の
アフターケアがしやすいスタイル

仕上げは一緒にやってもらうことにした

トリートメントと同じ香り
小瓶に入っているオイルを手のひらにたらす


すごく冷たい手をしている

一緒に温めるようにその滴を指先に馴染ませ
そのまま
毛先にもみこんでいく


 はぁ いい匂い…

毛先は楽しそうに揺れた

「手に残ったオイルは
そのまま流さずに馴染ませてくださいね」

荒れた指先も
縦皺の爪も
全てがあなたへの勲章

 「こんな時間
   忘れてました


 私、ママである前に
   自分だったこと

 すっかりどこかに置いてきていた」


その香りは
いつでも「自分」に戻れる場所へ連れて行く

それがわかれば

安心してきっとまた
「ママとしての自分」になれる

オイルの瓶を
大切に包んでお渡しした



「いってらっしゃい」



「いってきます」




はにかんだ口元が私へのご褒美

保育園に向かう坂道は
道しるべのように
イランイランの香りを残していった


さて
今日は
どんなお話から
どんなスタイルが生まれるかな


いってらっしゃい

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