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言葉のアート、声のアート~抽象アートの超個人的で無責任な解釈~

 最近、MOMA(the museum of modern art)のオンライン講座で、現代抽象アートについて学んでいる。
(※MOMAとは現代美術を展示するアメリカの美術館です。こちらから誰でも受講できます→リンク ※英語だけどGoogle先生がいれば大丈夫)

 なんか絵の具がぐちゃぐちゃになってたり、黒く塗ったキャンバスに赤い線が一本縦に引かれているだけだったり、これ何描いてあるの? ごみ? 何がいいのか全然分からん??ってなるあれ、あの抽象アートについて。

 講座内容の細かい説明は省くけれども(ジャクソン・ポロックやバーネット・ニューマンらの具体的な描き方を教えてくれます。最高だぜ☆)、じゃあ要するに抽象アートってなんなのよ?という話になると、それを説明するのは様々な歴史的経緯を踏まえねばならないので、ここでは省きます。すいません。

 自分の場合、いつも大事なのは自分がその学びの中から得る超個人的な気づきというか、自分自身に惹きつけて何を得ることが出来るかということだったりするので、例えば読書とかも筆者が何を言っているのか正しく理解することは全くもって重要でなく、自分の思考とリンクする言葉を見つけてどのくらい深くまで潜れるかが大事で、だから『造形思考』も全部自分なりの理解でしかないのに筆者とずっ友になったとか言っているのだけれども、まあそれはいいとして・・・
(※『造形思考』は相当深く潜れるとても有難珍しい本です)

 つまり何が言いたいかというと、今回の講座の冒頭をさっくり学んで、要するに抽象アートは「声のアート」で、それ以前のアートは「言葉のアート」だった、という自分なりの理解が芽生えたということだ。
(「感情のアート」と「論理のアート」とか「意識のアート」と「無意識のアート」とか、言い換えても良いかもだけど、自分には声と言葉がしっくりくる)

 言葉と声の違いについて、このところ考え続けている自分自身の思考と繋げて理解する。すると不思議なことにすっと頭に入ってくるし、腑に落ちるところがとても多い。(※間違っていてもいいし、むしろ間違っている方がいいとすら思っている。無責任ではなくて、自分自身の責任でもって自分自身のものとして”借り物でなく”理解することが大事だと思うので)

 バーネット・ニューマンの作品について説明している文章に「彼は抽象芸術の精神的な可能性を深く信じていた」という解説があって、なるほどと思ったのだけれども、要するに具体的事象から抽象という転換の根本には、目に見えるものを信頼する、物やお金を重視する価値観よりも、目に見えない精神的なもの、人間存在の根源に由来するものに意味や価値を求めたいという希求があったのだろうなということで、物として価値のある絵画、物として価値のあるアートを、抽象アートは価値があるかないかは別として人間存在の心の側にぐいぐいと寄せていった、ということだ。

 抽象アートは、ひと目見ただけでは何がなんだか全くわからない。理解できない。ひと目見て何か分かるようなものをそもそも描こうとしていない。 
 でも、だからつまらない、価値がないと言ってしまうのはとても勿体無いことで、そこに描かれている作家の内面の声を聞こうとすれば、それはむしろ具体的に描かれた絵よりも、はるかに雄弁に心の内をさらけ出して語りだすことがわかる。というか、感じられるようになる。自分なりの言葉で言えば、「声」が聞こえてくる、というのかな。

 具体的な物を描くと、鑑賞者の注意はそこに向けられてしまう。何が描かれているか、上手いか?実物に似ているか?きれいか?かわいいか?美しいか?

 だが、そうした表現はすでに極地に達してしまった(20世紀前半~)。
 ならばそれをあえて崩そう。という発想があって、既存の絵画の構成を逆手に取りながら、時に意図的に、時に実験的に、時に無意識的に、絵の中に、形や色の塊、流れ、エネルギー、あるいはそれすらない何かを、描き出していく。鑑賞者の注意を描かれた物に向けない。物を理解させようとしない。それは問いだから。
 これは何か? そこに何が見えるか? 私はここに何を観、何を感じるか? という、鑑賞者自身の内面に向けて発せられた、作家の問いがあるのみだから。
(※「問いのアート」と「理解のアート」という区別も面白いかもですね)

 抽象アートを「声のアート」と自分が言ったのは、それが作家のうめき声の現われのようなものだと感じたからだ。
 そこには論理的に言葉で説明できるようなものはなく、ただ作家が言葉で表せない何かを求めて、喉の奥、腹の底から、音にならない音、言葉にならない声を、グルグルグルグルと発しているようなもの。オオオン・・・オオオン・・・という、意識の底の暗がりに潜んでいる御しがたい獣の声を、しかしそこはどうにか人間としての理性を保ちながら、キャンバスに叩きつけたもの。恐らく、そのようなものなのだ、と理解したから。
 いや、これって綱渡りみたいな、かなり危ないものだよな、と思う。

 それは綺麗なはずはなく、理解できるはずもない。
 でも、きっと誰にでもあると思う。自分の中にある、理解できない何かの存在を感じること。言葉にならない蠢くような感情を、言葉にならないままに抱えて生きている、ということが。

 抽象アートは、作家の声にならない声を聞くことで、自分の中の声を呼び覚ましてくれるだろう。もしその声に何かを感じたならば、そのことが、おそらく唯一の抽象アートの理解の鍵なのかなと思う。そしてそれは、鑑賞者の個人的なものであり、むしろそれで良いものなのだ。
(※いや、ユング的な意味で集合的無意識的な意味もあるとは思っているのだけれども、まあ省きます・・・ 『造形思考』が無意識的なところに広がっていったので、その流れでユングの『自我と無意識』読んでます・・・)

 その意味では、欧米の全体主義的な価値観に寄っていたアートを、個人個人の心に帰していく、という自然で原初的な反動なのかもしれない、とも思う。自分が抽象アートに惹かれるのはここにあるのかな。

 まあもちろん抽象アートには、アートとしての価値、美術史的価値みたいなものがあって、そうした知識面歴史面からの理解もとても面白いものなのだけれども。
 自分としては、今の自分の関心ごとである言葉と声に惹きつけて理解することで、自分の世界を深めていけたら良いし、それが何か新しい発見に繋がっていったら良いなと思って、ちょっと考えてみたのでした。

 100人が見て、100人が全く違う印象を持つアートって、めっちゃ面白いと思うし、抽象アートはそういうものだと思うので、めっちゃ面白よなぁと、思います。

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miuraZen

描いたり書いたり弾いたり作ったり歌ったり読んだり呑んだりまったりして生きています。
趣味でサラリーマンやってます。

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