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自転車で90km先の混浴に行ってみた。

それは久々に行われた会社の若手数名を集めた飲み会での会話だった。既婚者の先輩が鹿児島に引っ越したばかりで彼女のいない私に話しかけてきた。

「カローサム君は出会いの場に行った方がいい。そうだ、鹿児島には混浴の温泉が沢山あるぞ。裸の付き合いで素敵な女性を見つけたらいいじゃないか、ガハハ。」

彼のアルハラとセクハラのミルクレープみたいな言動は決して悪気があるわけではない。彼は面倒見が良く後輩の私のミスを何度もフォローしてくれる優しい先輩だ。しかしここは健全な社内関係のために毅然とした態度で先輩の言動を嗜めよう。

「えぇ〜、ちょっと待ってくださいよぉ〜!自分に混浴は刺激が強すぎですよぉ〜!」

内心とは裏腹に口から出たのは今にも「〜でヤンス」と語尾につきそうな媚びた声だった。こうした心にもないことがスラスラ言えるようになったのは社会人としての成長なのか、人間としての退化なのかはわからない。

そんな私の態度を面白がったのか先輩はその場で鹿児島県内の混浴をリストアップしてくれた。されにその中から自転車で行けそうなところをおすすめしてくれた。車を持たず自転車で通勤する私は社内でかなり珍しいケースだった。

混浴目当てに一心不乱にペダルを漕ぐ姿を想像するとかなり間抜けだ。『スケベサイクリスト』という言葉が頭をよぎる。私はその後の飲み会を「勘弁してくださいよぉ〜」と「ちょっと待ってくださいよぉ〜」の二刀流で乗り切り家で眠った。

サイクリングというのはもっと穏やかな気持ちで行われるべきだ。そんな欲にまみれたサイクリングなど、こちらから願い下げだ。

数日後…

シャアアアアアアアア…

ギッギッギッギッギッギッギッギッ…カチッ…

グビグビグビグビグビグビグビグビ…

私は混浴を目指し自転車を漕いでいた。これには理由がある。

混浴という文化は失われつつある。我々はその文化を体験できる最後の世代と言ってもいい。私が老いてどこかの公民館で「おじいさんが若い頃って混浴があったってホント?」と子供たちに尋ねられるかもしれない。私はその時に答えられる老人でありたい。私が混浴に行くことにした理由はそんなところだ。決してやましい気持ちで向かっているわけではない。ホントだよ?

この日の目的地は桜島にある温泉だ。走行予定距離は約90km。鹿児島湾をぐるっと一周するルートを設定した。

賢明な方なら「フェリー使えば近くない?」と思うだろう。確かにフェリーを使えば走行距離は往復で約20kmに抑えられる。しかし20km走って入る温泉と90km走って入る温泉、どちらが気持ちいいだろうか?一流の美食家が料理以外のロケーションや音楽にこだわるように、私も温泉に至るまでの過程を大切にしていきたい。

え、帰り?帰りはフェリーを使うに決まってるでしょ、当たり前じゃないですか。

桜島がよく見えた。

この日の鹿児島市の最高気温は34℃。うんざりするような日差しと生ぬるい潮風を一身に受けて自転車を進めた。この日はお盆休みの最終日ということもあり幹線道路は車通りが多かった。運転に慣れていないドライバーもいるため注意が必要だった。

途中鹿児島百景に指定されている「蒲生の大クス」を見学した。推定樹齢1500年とも言われる巨木を見ていると自分という存在がひどくちっぽけに見えた。私が何km走ろうがこの巨木はただ「在る」のだろう。

おみくじを引くとそこには「一度おもい定めたことはわきめもふらず一心になさい 何事も成功します」と書かれていた。巨木に後押しされているような気分だ。私は再びペダルに足をかけた。

ありがとう蒲生の大クス、じゃあこれから混浴行ってくるから。

湾を眺めながらゆっくりと確実に進んだ。

時折すれ違う車から視線を感じる。後部座席の小さな男の子が手を振ってくれた。知らない人に応援されながら走るのは気分がよかった。

道中何度か通り雨に見舞われた。南国の鹿児島らしいハプニングだが私には気にならない。「一度おもい定めたことはわきめもふらず一心になさい」だ。雨が降ってもいつかは乾く。そんな余裕すらあった。細田守監督のアニメに出てくるような田舎をひたすら走った。

目的地に到着したのは夕方だった。受付に向かうと汗だくの私を見たスタッフが「日帰り入浴ですか?」と聞いてくれた。話が早くて助かる。入湯料を支払いタオル一式を手に風呂場へ向かった。お待ちかねの温泉だ。

結論から言えば素晴らしいお風呂だった。泉質は申し分なく熱さもちょうどいい。鹿児島で主流の熱めの風呂が苦手な私にはありがたい。そして目の前には鹿児島の海。オーシャンビューの露天風呂は最高のご褒美だ。何より貸切だった。

貸切だった。

私が入った夕方の時間帯は午後の活動を終えた日帰り入浴客と、夕陽が海に沈む瞬間を観たい宿泊客のスキマ時間だった。こうなると混浴もクソもない。かけ流しの源泉にカローサム100%だ。私にできることは混じり気なしの湯治を楽しむだけだ。

幸い貸切の温泉は私の心を穏やかにするのに十分な安らぎを与えてくれた。「一度おもい定めたことはわきめもふらず一心になさい」おみくじの言葉を思い返す。私は広すぎる湯船に浸かりながらこれまでの道のりを思い返した。

黒酢の蔵を見学した。
道の駅に立ち寄り足湯に入った。
ぶどう狩りに参加した。

ふりかえるとめちゃくちゃ寄り道していた。

しばらく浸かっていると別の男性客が入ってきた。その表情を一言で表すと「期待と落胆」だった。彼が怖い花言葉みたいな表情を浮かべる気持ちもわかる。きっと混浴に期待してやってきたのだろう。

女性客は来ないかと言われるとそんなことはない。しかし大半の女性客は通常の女湯を利用し、混浴を利用することはまずない。それに混浴スペースにも女性専用の時間帯が存在する。混浴の時間帯というのは実質男性専用の時間帯なのだ。

なぜ男女でほとんど仕切られているのにわざわざ「混浴」という言葉を使うのか。私は温泉で血行が良くなった頭で考えた。すると地方の温泉が抱える問題が見えてきた。

なぜ混浴はなくならないのか?

今回訪れた温泉はお世辞にも観光で栄えている印象は受けなかった。両隣のホテルはすでに潰れており廃墟になっていた。桜島は狭い島内にいくつもの温泉があるが、フェリー乗り場近くなどの交通の便が良い場所に観光客は集中してしまう。市街地から離れた温泉が生き残るのは容易ではない。

鹿児島県内の混浴はいずれも公共交通機関ではアクセスの難しいところに点在している。こうした秘境混浴のメイン客層はバイクで1人旅している男性だ。実際温泉の前にはツーリング客のものと見られるバイクが停まっていた。混浴という言葉を魅力に感じるのは独り身の男性に限られる。私だったら家族や恋人の裸が赤の他人に見られて良い気分はしない。

つまり混浴というワードはこうした単独男性旅行者を引き寄せる撒き餌として機能しているのではないだろうか?現代の混浴は昔の文化の名残ではなく、単独客を狙ったマーケティング戦略かもしれない。だとしたら私はまんまと誘き出されたことになる。ジョジョの「密漁海岸」みたいな話になってきた。

田舎の風習を興味本位で見物に行った物語の主人公は、村の奇祭で生贄にされると相場が決まっている。のぼせる寸前だった頭が急に冷える感覚があった。私は足早に風呂から上がり、フェリーターミナルに向かって自転車を漕いだ。

せっかくの楽しい旅だったのに急に怖い気分になってしまった。自転車を漕いだ疲労感がのしかかってくるようだった。リュックのポケットを探るとクスノキのところで引いたおみくじが出てきた。結ばずに持ち帰ってきたおみくじをフェリーで読み返した。

旅行 利なし 行かぬが吉

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