「無作為」こそ美しい。
無作為。"作為のないこと。偶然に任せること。ランダム。"
僕は、山本耀司が作る服を愛しています。それは、「生活に寄り添う」という視点を常に持ち続けているからだ。きったねえ居酒屋で金もなく、安焼酎の水割りを飲みながら延々管を巻く人間が、べろんべろんに酔っ払って手元もおぼつかなく、口からは酒の数滴がこぼれ落ちる。その時、ヨウジヤマモトの黒はそれを許します。もちろん表層として、「黒だから酒がこぼれて付着しても誰も気づかない」というのはあれ、もっと深淵、山本耀司が元来持っているパンク性がそれを許してくれる。それはまるで、『だらしなくても良いじゃねえか 人間なんだし』と言ってくれているようです。幾人ものだらしない人間が、彼の服に背中を押されます。僕もそのうちの一人です。
大学4年の夏、映画「苦役列車」を観た。くだらなくてだらしなく、ろくでもない日雇いバイトをずっと続ける北町貫太。趣味は読書、日雇いで稼いだ金を握りしめて本屋へ向かいます。目当ての本を見つければ、そこで夜が更けるまで立ち読みする。その本を買うことはなく、先ほど右手で握り潰したお金は、近所の居酒屋で全部使ってしまう。いわゆる「その日暮らし」というやつだ。毎日毎日吐くまで飲んで、「貯金」の概念なんか無いもんだから家賃のひとつも払えず、大家のおばあちゃんから日々『出ていってくれないかねえ』と言われ。僕は、この映画を観た挙げ句、まるっきり影響されてしまった。家賃だけはギリギリ払うけど。
いつも予定は未定だ。パンクスがよく言う "NO FUTURE" であった。未来は無い。ランダムに繰り返す日常に身を委ねて、そこにポッと現れる「生活」を一心に愛していくより他無い。所詮その日暮らしでも、その日さえ生きていければそれで良いのである。きっとすべて何とかなる。と思いたい。なんとかならないのが現状ではあるが。
豊かな生活、丁寧な生活には憧れない。取って付けたような、作為的な人生は本当に豊かなのか? 丁寧なのか? Instagramには、ひだの溜まったシーツの上に置かれた化粧品がズラーッと並ぶ。新作のスニーカーを履いた写真には多数の賛辞が送られる。ピカピカに光った海、絵の具を水で溶いたような空の青。それらを背景に、黄金色をしたビールと蜻蛉みたいなサングラスをかけた、いわゆる美女。僕にはその美しさがわからない。言葉はきついが、批判ではない。そうして作為するのは、きっと「努力」とも言えそうだからだ。が、僕、そんな作為は要らん。別にどうでもいい。
無作為なものが好きだ。等身大の生活が好きだ。この文章だってそうだ。僕は推敲をしない。物書きとしてあるまじき行為である。僕がここに書く文章は、下書きに入れて3日温めるなんてこともなく、ましてや辞書で探し見つけた表現をべろんとそのまま乗っけるなんてこともない。なるべく無作為でありたいと思う。話すように書き、書くように話したい。
偶然に任せること。ランダムに頭に浮かんだ表現を、きっと間違っていないだろうと8割確信し、そのまま書くこと。これはまさに「無作為」である。「生活」でもある。これは文章のみならず、日常生活も同じだ。本日『酒飲みに行こうぜ』と言われれば、尻尾を振って「行きます!」と言う。偶然性に委ね、ランダムで乱雑な日常を愛しているんである。
「誰にとっても "無作為" こそ美しいのだ!! みんな俺の考えに則って生きてくれ!」と右翼的なことは言えないが、現状、僕にとって美しいと言うべき最たるものは、無作為で丸裸の、ゴツゴツとしていて不器用な物であった。どうせ今日も、好きに酒を飲んで暴れて終わりだ。現状朝、いまだ予定は無いが。
頂いたお金で、酒と本を買いに行きます。ありがとうございます。