私と短歌

文学フリマ東京35で販売した『筋肉短歌会の本』(完売)に収録されている文章です。

短歌を詠んでいます、と言うと、結社には入っていますか、と返されることがある。短歌、と聞いて結社、が出てくるのは、ある程度文芸に親しみがある人だ。そんな時私は、この人の前で短歌の話をするのが怖い、と思ってしまう。本歌取りに気付けなかった時、漢字の読みに悩んでしまった時、文語の表現を正しく取れなかった時も同じだ。短歌を詠むことも、短歌のことを口にすることも、私には許されないのではないか。そんな感覚に陥る。

筋肉短歌会の名前の由来は、第一回目のお題が「筋肉」だったからだ。筋肉短歌会は、短歌から離れてしまった人が、もう一度短歌を楽しみたいと思って生まれた場所である。短歌は古典の和歌のイメージが強く、雅なものだと思われることが多い。ならば「雅」からいちばん離れた場所にある「筋肉」で、面白くて楽しい短歌を詠もうじゃないか。そんな経緯で始まったのが一年前である。決して高尚な集まりではないし、明確な目標もない。開催日も不定期で、短歌を紹介しながらどんどん話が脱線してラジオのようになることもある。けれどそんなスペースを毎回二十人以上の方が聴いてくださり、時には百首近くの短歌がリアルタイムで投稿されることに、私は大きな意義を感じている。

短歌を詠む上で、その歴史や伝統を無視することは出来ない。大胆過ぎる破調や記号を用いた短歌、フォントや印刷の仕方も含めて作品になる短歌。現代短歌と呼ばれることの多い、斬新な表現方法が出てきているのは、その土台に一般的にイメージされる「短歌」があるからだ。しかしその土台が、或いはその土台に辿り着くまでの道が、イメージや偏見も含めて大きく険しいものになっていて、誰でも楽しめるはずの短歌が手の届きづらい場所に運ばれてしまっているとしたら、それは非常に勿体無いことである。

けれど、筋肉短歌会という愉快な名前の、賑やかで明るくてどんな人でも歓迎される、商店街のような道があったらどうだろう。まだまだ発展途上の短歌会であり私であるが、もし筋肉短歌会が短歌への新たな入口になれていたとしたら。身構えずに短歌のことを話せて吸収できる場所になれていたとしたら。それはどんな小さな書店にも小説や漫画のように歌集コーナーが設けられている未来や、ヒットソングのように誰もが口ずさめる短歌が溢れている未来や、短歌と一括りに出来ないくらい短歌に多様なジャンルがある未来に繋がっているのかもしれない。私の大好きな短歌が、いろんな形でいろんな人に、世界中で愛されている未来に。