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生き抜くための感性

2011年2月19日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 先日、都内のスポーツ店で登山家の竹内洋岳(ひろたか)さんに久しぶりに会った。
 地球には14の8000㍍峰がある。彼はそのうちの12座に登り、日本人としての初の14座登頂にもっとも近い男だ。昨秋、13座目になるチョ・オユー(8201㍍)に挑んだが、雪崩の危険があるため撤退したことをブログで読んでいた僕は、その時の状況をたずねてみた。すると、登れなかったことより「10歩先に進んだことを後悔している」と、彼は言った。

 とても興味深いコメントで、後日、改めて竹内さんに話を聞く機会を設けてもらった。
 9月30日、その日は快晴で絶好の登頂日和だった。高所順応もよくできた完璧なコンディションで、彼はパートナーと標高7700㍍にいた。山頂まで標高差500㍍、目の前の45度ほどの雪の斜面を登り切れば、後は緩やかな斜面が頂上まで続く。
 空気は澄み渡り、気持ちは完全に山頂へ向かっていた。ふと稜線直下を見ると雪崩の跡があり、そのすぐ下には横一線に亀裂が入っている。これを見て、竹内さんは素早く通り過ぎることが最良の案に思えた。冷静に判断したのだが、10歩進んだところで後ろ髪が逆立つ感覚を得た。「ここはやばい!」。希薄な空気の中、選考しているパートナーを呼びとめ、呼吸を整え落ち着いて話した。「すぐに下山しよう」

 山頂を目前に引き返すことは、登るよりもはるかに難しい判断だ。そこまで費やした時間と労力、登頂への思いが重なる。雪崩の可能性がある亀裂は危険だが、多くの人はいい状態の時には最悪の事態を想像せず、サインを見逃してしまう。竹内さんはそのサインを見逃したわけではないけれど、一度は「行ける」と考えた。引き返したことは本能的な勘だと彼は言う。これまでの生死を賭けた経験と、研ぎ澄まされた感性に裏付けられたものなのだ。
 山頂を目指したことを竹内さんは「冷静に間違った判断をした」と言う。「10歩進んだことが悔しくてしょうがない。パズルの欠けている1ピースをあえて無視して完成させようとしたようなものだ」

 世界で初の無酸素で14座を登頂したラインホルト・メスナーは「山登りの真の技は生き抜くことである」と言った。冒険家たちに必須の「技」は過酷な自然で研磨される。残り2峰、竹内さんの挑戦は続く。

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