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三浦豪太の探検学校

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冒険心や探究心溢れる三浦豪太が世の中について語った日本経済新聞の連載記事「三浦豪太の探検学校」(2019年3月に最終章)の、リバイバル版。わずか11歳でキリマンジャロを登頂。フリ…
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2023年4月の記事一覧

夏の富士山で忍耐学ぶ

 つい先日、富士山に富士宮ルートで登った。僕の長男が以前通っていたサッカークラブ「NPO法人FCUスポーツクラブ」の清野乙彦代表とメンバーの子供たち、逗子の友人家族、そして僕と長男で総勢23人。  富士山には2年前にも、長男を連れて行ったことがある。しかし、標高が高く単調なのぼりが続く登山は当時6歳の長男にはこたえたようで、途中「苦しい」と何度も漏らし、やむなく7合目付近で引き返してきた。僕たち親子にとっても再チャレンジの機会であった。  何といっても日本一の山である。日本

デナリ山トイレ事情

 先日、米アラスカのデナリ国立公園から封筒が届いた。中には、ピッケルにトイレットペーパーを巻いたイラスト入りの旗があり、その旗にSustainable Summits(持続可能な山頂)と書いてある。  デナリ山は国立公園の一部であるため、登山者は申請書提出とルール説明受講のため、レンジャーステーションに立ち寄る。6月下旬にデナリ登頂を果たした僕らの隊も、登山前にこの説明を受け、黒いふたのついた緑色のバケツをもらった。トイレである。  登山には大なり小なりトイレ問題がつきもの

アンチエイジング考

 元井益郎さんと出会ったのは10年ほど前だった。当時、僕らが企画したヒマラヤトレッキングツアーに元井さんが参加してくれた。体力のある人で、のちにエベレストを間近に望むカラパタール(標高5545㍍)を一緒に登ったときも、少々の高所では平気な顔でいた。この人ならば、と標高0㍍の田子の浦から村山古道を経て富士山頂に登る計画にお誘いし、26時間ほぼ休みなく歩き通して一緒に登頂した。  山に魅了された元井さんは、ただいま7大陸最高峰に挑戦して回っている。すでにキリマンジャロ、エルブル

デナリ登山 最高の体験

 6月26日午前5時。陽光はまだデナリ山の背後に隠れていた。僕たちは難所デナリパスを抜けて山頂を目指していた。デナリパスは過去に山田昇、小松幸三、三枝照雄と言った日本の一流登山家たちが消息を絶った急斜面のトラバースである。この米アラスカの巨峰は当時マッキンリーと呼ばれ、冒険家の植村直己氏が帰らぬ人となった山として有名。日本人にはデナリよりもマッキンリーの名の方がなじみ深いのではないか。  北極圏に近いデナリはこの時期、白夜となる。太陽は申し訳ばかりに山の陰に隠れるが、空はい

登山の「マイペース」知る

 先日、父の雄一郎とともに鹿児島にある鹿屋体育大学の山本正嘉教授に会いに行った。僕たち親子は過去15年にわたってこの大学で体力測定を行い、貴重なアドバイスをもらっている。今回僕が注目し、確かめたのは山本教授の行った有酸素運動の負荷テストのやり方が登山家にとってとても実践的であったことだ。  有酸素能力を測る一般的な方法の一つにトレッドミル(ランニングマシン)を使い、スピードと傾斜を少しずつきつくして、どの程度の運動負荷まで耐えられるかを試す方法がある。しかし、この方法だと、

タネ戦争の始まり

 昨年11月に僕たちの事務所の屋上に作付けをした小麦が、このほど見事な実をつけた。このタネは一般社団法人シーズ・オブ・ライフの代表ジョン・ムーアさんにいただいたものである。  タネがここまで育つのに、全く手がかからなかった。用途のなかったプラスチック製の箱にブルーシートを貼って土を入れ、小麦の種をまいただけ。手入れもせず肥料も農薬もまったく使わず、それがこんなに見事に実るとは驚きだ。  このタネは、高知県で開かれた交換会でジョンさんが手に入れたものである。もとをたどれば350

登山支えるポーター

 今回の稿もまた、この春に終えたネパールのコンマラ遠征のご報告。この遠征は、ヒマラヤ山脈のチョオユーからスキーで滑走するという来年の計画に向けた事前トレーニングを兼ねていた。スキーや氷河の上で活動するための装備を持ち込んだため、通常のトレッキング以上の大荷物となった。クンブ地方と呼ばれるこのあたりでの荷の運搬には、ポーターや高所に適したウシ科の動物ヤクが不可欠である。だがここ数年、ネパールの事情や登山状況が絡んで、ポーターやヤクを確保するのがとても難しかった。  ポーターは

高齢の挑戦 支える配慮

 先日、父の三浦雄一郎とともにヒマラヤでのトレーニングを終えた後、シェルパの里ナムチェに立ち寄った。そこでミン・バハドゥール・シェルチャンの訃報を聞いた。85歳でのエベレスト登頂を目指す途上での落命だった。  シェルチャンは2008年、当時最高例の76歳でエベレストに登頂した。同年に父も75歳でのエベレスト登頂を目指していたこともあり、ベースキャンプにいた彼を訪ねたことがある。物腰は柔らかく、それでいて威厳のある人であった。父と会うなりシェルチャンは「あなたは私にとって先生で