【私小説】消えないレッテル 第12話

  *

 数日が経過したあと、正社員登用試験の最終結果の発表日がやってきた。

 私は直属の上司である二面性の課長に呼び出され、結果発表を伝える総務部長の部屋まで案内された。

「カミツキ・タケルさん、お入りください」

 その声は人事課長のものだった。

 総務部の人なので、私にとっても長い付き合いのある人だ。

「はいっ! 失礼しますっ!」

 私は二面性課長と一緒に部屋に入っていく。

 総務部長と人事課長が部屋の中にいた。

 総務部長はニコニコした顔で私を見ていた。

「カミツキ・タケルさん!」

「はいっ!」

 今、目の前にいる総務部長は私が有期契約社員五年目のときに人事異動でやってきた部長さんだった。

 正直、この総務部長が、どういう人間なのか掴みかねるところがあった。

 でも、昔から、その総務部長を知っている人たちが「優しい人」であると口をそろえて言っていた。

 だから、その満面の笑みは私を迎え入れる顔なのだと思った。

 そして、その、ニコニコ顔の優しい総務部長が百二十パーセントの笑顔で私に向かって言っていく。

「二〇二〇年度、正社員登用試験、面接の厳正な審査の結果、今回はカミツキ・タケルさんの採用を見送らせていただきました! カミツキ・タケルさんのこれからのご活躍を期待しています!」

「ありがとうございましたっ!」

 あれ?

 今、なんて?

 私は、すぐに総務部長と人事課長のいる部屋を退出した。

 私は部屋を出た瞬間、両親にラインで報告した。

 母は『がんばったのにね』と。

 父は『どうして? 詳しい事情が知りたいです』と返事をしてくれた。

 発達障害、統合失調症、適応障害の症状と思われるものが脳内に痛みとして噴出し、涙と怒りが止まらなくなる。

 私はスマホを床に投げつけた。

 その光景を見ていたタジマさんとクロイシさんが私の事情を知ったのか、笑いながら、なにも声をかけずに去っていく。

 私は総務部のフロアから逃げていき、掃除用具のある一階の倉庫へ引きこもろうとした。

 そのルートへ行く途中、私は、あるポスターを見かける。

 それは障害者の合理的配慮に関するポスターだった。

 私は、そのポスターの文章を脳内で読み上げていく。

『発達障害者の方は合理的配慮をして、やっと健常者と同じレベルになれるのです。精神障害者、発達障害者の方には合理的配慮をしていきましょう』

「おまえが言うなっ!」

 私はポスターの貼ってある壁にパンチとキックを繰り返していく。

 何度も何度も打撃した。

 手の指が徐々に黒くなっていった。

 私は、この無意味な行為をやめていく。

 結局なにも変わらなかった。

 私は、この会社で精神・発達障害者の初めての正社員になることなく、この会社を辞めていくことが今日、決定した。

 私の掃除用具の置いてある倉庫に引きこもろうとしたとき、近くにあったエレベーターの中からタジマさんとクロイシさんが現れた。

 実は近くにいた私には気づいていない。

「あれ、絶対キレてましたよね~」

「ね~」

 あのときの私を見て、笑っているのだろう。

 私が、この会社から、いなくなることを喜んでいるように思えた。

 倉庫に引きこもろうとすると、掃除のおばちゃんが私に気づく。

 涙目の私を不思議に思ったのだろう。

 なにも言わずに私は去った。

 その瞬間、二面性課長が私のスマホに電話をかけてくる。

 正直、対応したくなかったのだが、あとでグチグチ言われても困るので電話に出る。

「はい」

『カミツキさん、ちょっと、お話しませんか?』

「今さら、なにを話せばいいのですか?」

『君の今後について、話したいのです』

「はぁ」

『今すぐ総務部フロアへ来てください』

「わかりました」

 しょうがないと思いつつ、八階の総務部フロアへ戻っていき、私は二面性課長と丸テーブルのある椅子に座って話していく。

「カミツキさん、今回は残念でしたが、残りの期間も合理的配慮をさせてください」

 合理的配慮って、いったい、なんなのだろう。

 一種の言葉遊びみたいに思えてくる。

 合理的配慮って言っておけば、とりあえず、合理的配慮になるとでも思ってそうな口ぶりだなぁ、おい。

 私は、そんなことを思いつつ、返事をしていく。

「なら、合理的配慮をしてください」

「なら?」

「私が在宅勤務をすることを許可してください」

「在宅勤務? いったい、どうして?」

「私が今の精神状態で、この場所で仕事ができないと判断したからです。残りの数か月は在宅勤務で働かせてください」

「わかりました。総務部の皆さんと相談するので、少々お待ちください」

「はい、お願いいたします」

 二面性課長が総務部フロアへ戻っていく。

 この会社には在宅勤務できる環境が整っていた。

 特にコロナ禍の世界になっている今だからこそ、この会社は新型コロナウイルスが地球世界に広まっていく中、在宅勤務ができるような環境を瞬時に作ったのだ。

 それくらいスピーディーに動けるフットワークの軽い会社だというのに、精神・発達障害者の社員に対する合理的配慮に関しては、なにもかも理解不足なところは本当に残念だと思う。

 そんなことを考えているうちに課長が私の前に戻ってきた。

「カミツキさん、在宅勤務の許可が出ました」

「ありがとうございます。では、業務用のノートPCを持っていきますね」

「ええ、どうぞ」

「ありがとうございました」

 課長に別れを告げ、私は自分のデスクから必要なものを持っていき、総務部フロアから去っていく。

 ノートPCの入った鞄を持ちながら。

 最後に私はタジマさんとクロイシさんの様子を見る。

 あんなに私のことで笑っていたのに、フロアの中では正常な顔をするんだね。

 そうやって社会の歯車になりたがる君たちよ。

 君たちは本当に正常か。

 正常のふりをするのが得意なだけではないか。

 普通というカテゴリーに入る君たちよ、しんどくない?

 こっちへおいでよ。

 いや、私たちのようになるのは耐えられないか。

 そうだな。

 しんどいよ、少なくとも私は。

 この社会は人ひとりを育てるだけでも大変だもんな。

 私は会社という社会に追放された。

 これから、どんな気持ちで仕事に向き合えばいいのだろう。

 こんなことなら障害を隠して、新卒の正社員になったほうがマシだった。

 もしかしたら、それがきっかけで異性と付き合えるチャンスができたかもしれない。

 正社員になっていたらイケイケなギャルと付き合えていたかもしれないのに。

 その可能性の世界線は、すでに消え去ってしまっている。

 そんなものは、ないんだよ。

 この世界に蔓延する創作物は、すべて偽物だ。

 オタク属性を持つ君よ。

 目を覚ませ。

 君たちは、おっさんおばさんの作り上げた幻想を二次元キャラクターにして、恋の感情を抱かせ、偽物の物語に感動させて、お金を払わせるペテン師の手中にハマっていることに気づいていないだろう。

 そうだ。

 今こそ私の信仰者になるべきとき。

 私は私を崇め奉る信仰者を募集中だ。

 カミツキ・タケルだけを信じよ。

 カミツキ・タケル教ということか。

 わっはっは。

 なんか虚しくなってきた。

 そんな妄想を脳内に広げていくのだが、結局なにも変わらない。

 この事実は変えようのない事実なのだ。

  *

 両親のマンションへ行って、父と母に事情を説明して慰めてもらったのか、それとも自分のアパートへ帰って、ひとり泣き崩れていたのか、そのあたりの記憶が非常に曖昧で理解しがたいものになっていた。

 幸い、正社員登用試験の最終結果は金曜日、平日が終わる日だったので、二日間だけ休息を得られる。

 しかし、私の脳内神経回路が常時、悲鳴を上げ続け、もう限界と言えるところまで来てしまっていた。

 あらゆるニューロン、あらゆるシナプスと呼ばれる神経たちが私を自殺の誘惑をおこなってくる。

 それは言語化できない感覚をもたらす誘惑であり、それ健常の民たちに、その感覚を説明することはできないだろう。

 私たちの神経は、みんな違うから。

 ニューロ・ダイバーシティという概念が提唱されたのは一九九〇年代後半だというのに、二〇二〇年の現在、その考えは日本社会に影響を与えていないように感じられる。

 少なくとも、これから退職する会社では、そんな概念があるなど微塵も伝わっていない感覚が私にはあった。

  *

 土曜日の朝、金曜日から一睡することもできず、自殺衝動に駆られていく私は、その自殺衝動に抵抗するために包丁、ハサミ、カッターなどの鋭利な刃物をすべて両親に持って帰らせた。

 そして、私は私の命をこの世界に残し続ける決意をした。

 ただ、私の体の異常は睡眠できないことと自殺衝動に駆られることだけではなく、以前、僅かながら残っていた性欲が勃起不全状態になるまでの影響を及ぼした。

 二次元女性キャラクターのパイズリ、足コキ、亀頭を乳首に当てる行為――乳首ズリ、乳首コキと呼ばれるプレイであることを当然、私は知っている――に興奮が起こらなく、本当に去勢された犬と変わらない状態に陥った。

 私は、もう男と呼べる状態ではない。

 そもそも女性は私のことを男として見てくれないし、誰も私に興味を示さない。

 私という男を見てほしかったな。

 私という男を女性たちに知ってほしかった。

 でも、今の私は二次元にしか興奮しない典型的なオタク童貞である。

 このまま魔法使いになることは確定済みだ。

 だってコロナ禍だから。

 私は二十八歳のときに新型コロナウイルスがパンデミック世界的な大流行になるとニュースで報道されたとき、私の運命は二十八歳で魔法使いになることが確定したと思った。

 そんな自己中心的な考えだからこそ、女性が、その童貞オーラに気づき、自然と離れていくのかもしれない。

 そんなことを思ったところで私の状況が変わることはない。

 頭痛刺激が脳内をジクジクと満たしていき、だんだんと私という存在が合致しなくなる。

 たぶん、統合失調症と適応障害の症状が悪化していってるのだろうか。

 その感覚を言語化して、ダイレクトに健常者の方々に伝えることはできないだろう。

 たとえニューロ・ダイバーシティの概念が浸透し、伝える技術が発展していっても、人類の一パーセントしか理解できない感覚を九十九パーセントの人類が理解することは今の時代では絶対にできない。

 なぜなら、あなたたちは私じゃないから、という独り言が脳内に言葉として反芻する。

 人に伝わらないニューロンとシナプスの感覚が私を苦しめていく。

 これは始まりに過ぎないことを私は実感していた。

 再発症の感覚が、すでに私の中にあった。

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