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『夢の中』と『アステロイドシティ』を一緒くたにするけったいなレビュー

これは現実か、はたまた幻にすぎないのかみたいな歌詞から始まる歌があった様に思います。『夢の中』はそういう映画でした。

映画はある男女の会話や仕草ややり取りを通じて展開します。終始不思議な、正に夢現な雰囲気の中で、ストーリーらしきものが何となく見出され、ラストシーンでは像を結ぶようにはっきりと物語が前に進みます。
本作はコミュニケーションをテーマにしたそうですが、主役二人が話す会話の食い違いは夢の中の会話を思わせながら、また現実でも往々にしてそんなもんかもなとも思わせます。
そういう会話のもどかしさと、目の前で起こる事を止められないというシーンも夢々しい。

「夢があるっていいですね」っていうセリフがあった気がします。あった気がするんですが、夢だったかのように掴みどころがないです。このレビューも、記憶に逃げられないうちに書き上げてしまわねばなりません。
ともかく、このセリフは眠る時の夢ではなくてアメリカン・ドリームの夢の意味です。その後「私はもうずっと夢を見てない、いやもしかしたらずっと夢の中なのかも」的な感じで続いていたと、そう記憶しています。
よく聞く言い回しとして、いつまでも夢ばっかり見て、というようなセリフがあります。ねぼすけジーンが出てくる歌もこの用法です。この場合夢と対置されるのは現実とか日々とかその辺りでしょう。この否定的な言い回しからは、夢は現実からの逃避であるという考えが見えます。この考えは眠る方にもアメリカンの方に対しても通じます。
しかし世に、夢に挑むとかとも言います。この場合は日常より一段難しいことへ立ち向かう意味が含まれます。カメラマンの主人公に向かって、その彼女が言う「私はあなたの商売道具じゃないわ」みたいなセリフがあったと思うんですが、でその後「もっと私の内面について分かろうとして」風のことを言ってました多分。夢を免罪符に日常を、大事の前の小事を、地上にある星を、疎かにして逃げたのでしょうか。
いよいよ以ってこれはもう、非常に掴みどころのない段落になってまいりました。悪文です。結局どっちの意味でも逃げてますね。私も実は夢の中でこれ書いてるんでしょうか。
とは言え恐らく、人間何かから逃げて何かに挑んでなのでしょう。我々の時間は有限です。朝起きる時間と夜寝る時間は繰り返しますからかくれんぼの鬼をしながら鬼ごっこの鬼から逃げているんでしょう。

さてまた、ラストシーンでは主役二人が前向きに一歩踏み出しますが、ある意味この映画の目覚めとも言えるでしょう。セリフもおあつらえ向きです。
『アステロイドシティ』には「眠ることなくして起きることはできない」というセリフがあります。この映画は劇中劇のような入れ子構造で展開され非常に何言ってるか分からん映画なので要約できる気がしません。ともかくも変な奴らがビビットな箱庭に一時集まることと、劇中の「劇」が、つまりは眠りであって、その一時の逃避がまた我々を日常に向かえるようにするのだという主張があったと思います。
去年の秋に観て以来、長く眠りについていた断片のメモをようやく書き起こすことができました。
つまるところこの2作は逃げることへの肯定を与える映画だったと思います。

さて、きっと取りこぼしだらけです。
刻々と、零れ落ちること砂の如しです。
眠ってもその全部で夢を見てるわけではないそうですし、欲の皮が突っ張るといけません。ほんの一部だとしてもそれでよしとしましょう。所詮劇の一つなので、多くを逃しても愛しぬけるポイントが一つありゃいいのです。

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