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『あの頃の自分の事』感想文

⭐️この感想文は2022年11月9日に書いたものです。

今朝(11月9日)、芥川龍之介の直筆資料が親族の方から寄贈されたというニュース。雨に濡れた手紙など、保存状態のよくないものも。横浜市立大学と藤沢市で協力して修復していくそうです。今回、大学の講義ノートも多く、芥川が大学でどんな授業を受けていたかが分かると、期待が高まっているそうです。
ちょうど感想文を書こうと思っていた作品がありまして、その題名は「あの頃の自分の事」。大正4年の冬、芥川が東京帝国大学3年のときの話です。(ちくま文庫版の全集第2巻に収録されています。)

長めの前置きから始まります。引用しますね😊。
「以下は小説と呼ぶ種類のものではないかも知れない。そうかと云って、何と呼ぶべきかは自分もまた不案内である。自分はただ、四五年前の自分とその周囲とを、出来るだけこだわらずにありのままを書いて見た。従って自分、あるいは自分たちの生活やその心もちに興味のない読者には、面白くあるまいと云う懸念がある。が、この懸念はそれを押しつめて行けば、結局どの小説も同じ事だから、そこに意を安んじて、発表する事にした。ついでながらありのままと云っても、事実の配列は必ずしもありのままではない。ただ事実そのものだけが、大抵ありのままだと云う事をつけ加えて置く。」

わりと長めの説明です。「自分のことを書く」ということに対する、芥川の躊躇やためらい、そして幾分か不安な気持ちを感じました。

文庫版にして7行です。7行にわたって書いているあたり、芥川、実は気が小さくて心配性なのでは…と余計なことを考えます。この感じ、他人とは思えない……などと、また余計なことを考えます。すみません💦、文豪の妙なところに親近感を抱いてしまうという、わたしの非常に悪い癖です。

お話の日付けは11月です。いまちょうど11月ですから、とてもタイムリーですね。

「久しぶりに窮屈な制服を着て、学校へいった」とあります。あまり真面目に通うタイプではなかった模様。
友達と交互に授業に出て、テスト前はノートを見せ合う、みたいな話もありました。
ロオレンス先生のマクベス講義つまらん、とか、
言語学の授業で、前の席の、長髪の人の髪が自分のノートにかかって邪魔…。だからノートをとらないことにした。そのかわり、向こうに座っているハイカラな学生の横顔を、ノートに描いていた…とか。まじめに授業受けてないですね😅

お昼は成瀬正一と大学前の一白舎(いっぱくしゃ)という安い食堂に行き、曹達水と二十銭の弁当を買っています。
お弁当にソーダ水…。甘党なのか、それとも当時ソーダ水を飲むことがオシャレだったのか…非常に気になります。

芥川は、この成瀬と仲良しだったようで、「かなり懸隔て(かけへだて)のない友情が通っていた」と書いています。

また、まさに文学部の学生!というエピソードもでてきます。成瀬と一緒に「ジャン・クリストフ」を読んだり、
久米正雄と「作品は書いてる?進んでる?」と確認しあったり。久米は芥川の友達グループのなかで才能の抜きんでた存在であり、久米の存在が芥川にとって刺激になっていたようです。
「実際自分の如きは、もし久米と友人でなかったなら、即ち彼の煽動によって、人工的にインスピレエションを製造する機会がなかったなら、生涯一介の読者子たるに満足して、小説なぞは書かなかったかも知れない。」とまで言っています。

また、自然主義が与えた文壇への波動や、田山花袋(群馬県出身!)への批評とか、
武者小路実篤の話とか、
帝劇にフィル・ハーモニィ会を聴きに行ったら、休憩時間の喫煙室で谷崎潤一郎を見た!とか。芥川はその人たちを批評しながらも、その才能やすごさを認めています。

また、ある日の午後、成瀬にドイツ語の授業を頼んで、外に出た芥川。友人の松岡譲を訪ねようと思い立ちます。

下宿に彼を訪ねると、松岡は死んだように寝入っていました。徹夜して作品を書いていたようです。
松岡が起きないので、芥川はそこを離れようとしますが、松岡が眠りながらまつげに涙をいっぱいためていることに気付きます。頬の上にも涙の流れたあとが。
『自分も夜通し苦しんで、原稿でもせっせと書いたような、やり切れない心細さが、にわかに胸へこみ上げて来た。「莫迦な奴だな。寝ながら泣くほど苦しい仕事なんぞをするなよ。体でも毀したら、どうするんだ。」-自分はその心細さの中で、こう松岡を叱りたかった。が、叱りたいその裏では、やっぱり「よくそれほど苦しんだな」と、内証で褒めてやりたかった。そう思ったら、自分まで、いつの間にか涙ぐんでいた。』

この部分、私も涙がこみ上げました。

下宿を出た芥川。「往来は相不変(あいかわらず)、砂煙が空へ舞い上がっていた。そうしてその空で、凄まじく何か唸るものがあった。気になったから上を見ると、ただ、小さな太陽が、白く天心に動いていた。自分はアスファルトの往来に立ったまま、どっちへ行こうかなと考えた。」(「天心」:空の真ん中、中天)

芥川がこの作品を書いたのは学生時代から4~5年経たころ。自分のこれからの方向性を模索している気持ちを、ラストの描写に重ねたのでしょうか。余韻を残すラストでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました😊

#芥川龍之介 #あの頃の自分の事

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