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青の緞帳が下りるまで #08

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第一章 ヴィーチャとAの出会い 2


 ヴィターリーの足は自然と教会へ向かった。国王の死を悼む人々の祈りの中、ただ音楽が聞きたかった。教会ならば聖歌隊の歌が聴ける。今は空っぽの体を音で満たしたかった。

 教会に行く道々、漠たる不安を抱えた人々がアルトランディア王国の行く末を案じ、喋りに興じていた。
 男系の王位継承権を持つ人間は一人。このユヴェリルブルグの領主であるサルティコフ大公であるが、生まれつき病弱で屋敷の外に出られない体である。
 大公は四代前の国王崩御のときから時期国王候補として名前が挙がっていたが、持病を理由に辞退し、弟と二人の甥に順番に王位を譲った。そんな人物が王国を統治できるとは到底思えなかった。

 まだ遺体の発見されていない王女が生きていれば、母の祖国リトヴィスを後ろ盾に王位を継ぐ可能性もあった。ニコライ十世とリトヴィス王女との間に生まれた一人娘のアナスタシア王女――彼女が即位すれば、アルトランディア王国は完全にリトヴィスの属国となる。いや、そんなことになれば、アルトランディアの人間は黙ってはいない。全アルトランディアの力を結集して、リトヴィスと戦うことを選ぶだろう。

 人々は道行く人を捕まえては話をした。その心情をヴィターリーは理解できた。何かをしていないと――せめて誰かと話していないと不安に押しつぶされそうになる。
 石造りの教会には保護を求めて多くの人が押し寄せ、聖歌どころではなかった。入ることのできなかった人々が教会の前で祈りを捧げている。

 ヴィターリーは荷物をおろし、教会の扉を背に腰をおろす。今は少しでも頭と体を休んでおきたかった。
 十字を画き、祈っていると、

「すみません、王都から来た方ですか?」

 初老の婦人に話しかけられた。頭は毛皮の帽子で包まれている。
 王都の人間特有の、訛りのないきれいなアルトランディア語。ヴィターリーの旅姿を見て、王都から来たと思ったようだった。

「私はユヴェリルブルグの親戚の家に新年を祝いに来たのですが、列車が出ないということで、昨日から足止めをくらっているのです。来週には授業がはじまるので、一刻も早く戻りたいのですけれど」

「教師をされているのですか?」

「ええ。今月末には試験があるので、遅くともそれまでには。王都の家族に連絡をするにも、電話局も封鎖されていて連絡がつかないのです。新聞の記事はどれもこれも情報が曖昧で不安を煽るようなものばかり。王都の状況をご存じありませんか? 列車は出ないんでしょうか」

「申し訳ないですが、私もなにも……」

 それでは女性に対して不親切かと思い、ヴィターリーは言葉を付け足した。

「私はオゼルキ村から王都行きの列車に乗ったのですが、王都に行くのは危険と判断され、進路が変更になり、今朝、ユヴェリルブルグに着いたばかりなんです。私が乗った列車を最後に、王都行きの列車はすべて止まっているようです」

「そうなんですか……。これからこの国はどうなるのでしょう……」

 老婦人は丁寧にお礼を言い、会釈すると、雑踏の中に消えていった。

 食欲を刺激するにおいが鼻腔をくすぐり、ヴィターリーはふいに空腹を覚えた。
 教会の脇では王都周辺から逃げ込んだ人々にあたたかい食事を配っていた。
 一杯のスープをあてがわれ、いっとき空腹が満たされても、その先に押し寄せてきたのはやはり絶望だった。

 王都に戻れなくなった以上、当初の目的通り、ドイツに向かうのが得策といえる。しかし、欧州行きの列車が出るサルティコフ線は依然、閉鎖されている。
 隣国まで徒歩で行くにも、唯一の国境通りは山道で、雪のため往来が制限されている。これ以上雪が積もると、雪が溶けるまで完全に西側への移動はできなくなってしまう。

(まずいな)

 車掌に教えてもらった駅前の特別施設に行ってはみたが、もとはサルティコフ大公の迎賓館だったというその建物はヴィターリーからすると、あまりにも豪奢だった。
 入口には常に屈強な番兵が立っており、不審者に睨みをきかせている。
 気後れしたヴィターリーは別の宿泊施設を探すことにした。

 数時間後。
 駅の時計を見上げ、ヴィターリーはかじかむ手をこすった。
 白い息を吐くたびに体からぬくもりが奪われるように感じる。
   どうしてこんなことになったのだろう。

 駅の待合室には人々が肩を寄せ合い、来ない列車を待ち続けている。
 駅の案内所の行列に並び、暖をとれる場所を訊いたが、街のホテルや宿舎は外国の貴賓や貴族たちが占領してしまい、空室はない。
 街を彷徨っても、緊急事態のため、店は早くから閉めてしまった。
 食べるものも、飲むものも手に入らない。
 そこかしこにいる人々は皆、沈鬱な面持ちで祈り続けていた。リトヴィス軍が攻めてこないようにと。

 これは本当に駄目かも知れない。

 こういうときに、いつも聴きたくなる曲がある。

 ――この世に 幸いあれ

 ヤローキン作曲の聖歌だ。
 この歌を子供のときに聞いたとき、その美しい旋律に身震いした。
 村の音楽会でヤローキンの曲目があると聞くと、飛んで行った。楽譜を買うお金はなかったため、耳で覚え、家にあった古ぼけたピアノでそれを繰り返し弾いて覚えた。

 ピアノとバイオリンの教師をしていた姉のヴィーカはそんな自分に楽譜の書き方を教えてくれた。そのヴィーカはリトヴィス軍に殺され、生きる道標を示してくれたヤローキンもこの世にはない。王立軍のミーチャもリトヴィス軍との戦いでその命を散らしたかもしれない。
 トランクの中には楽譜とわずかばかりの現金。これからどうしたらいいだろう――。

 駅前に戻り、広場のベンチの積もった雪をはらい、腰を下ろしたときだった。

 天地天上の創造主よ
 心からの願いを聞き届けたまえ
 われらが慈悲深い国王陛下に祝福を
 王よ、国の至宝を守りたまえ
 青きアルトランディアの民を愛したまえ
 あまねく大地に輝かんばかりの祝福を
 この世に 幸いあれ
 この世に 幸いあれ
 国王陛下に幸いあれ

 ヴィターリーが胸に描いていたのとまったく同じ旋律。ヤローキンが作曲した国王賛歌だ。
 それも聞こえてくるのは、胸を締め付けるような、美しく澄んだソプラノ。

 一体誰が――。

 広場を行き交う人々の足が止まった。誰もがその声の主を探そうとした。一足先に声の主に気がついたのはヴィターリーだった。
 広場の中心に置かれた巨大なクリスマスツリーに背をもたれながら、十二、三歳ほどの少女が一心不乱にヤローキンの聖歌を歌っていた。
 薄暗い広場で、そこだけ光が差したように明るかった。

 緩やかなウェーブのかかった長いダークブロンドの髪を両肩に垂らし、その小さく整った顔はまっすぐ天を仰いでいる。
 二つの双眸は、ユヴェリルブルグの街さながら、青い宝石のように輝いていた。
 その顔が一瞬、ヴィターリーの亡き姉ヴィーカの面影と重なった。

 十年以上の歳月が経つのに、一日たりとも忘れることはない、最愛の姉。
 鉱山労働者が多いオゼルキ村では健康的に日焼けした肌と丈夫な体が好まれる。
 ヴィーカはそのどちらも持っていなかった。少し歩いただけで息切れがする肉体。青い血管が浮いて見える透明な肌。やさしいけれど、儚い微笑。

 ヴィーカはヴィターリーを寝かしつける際、子守歌がわりにヤローキンの聖歌を歌った。音程は正確だったけれど、どこかか細い声だった。少しでも目を離すと、ヴィーカが空気に溶けて消えてしまうのではないかと思い、ヴィターリーはなかなか寝つけなかった。

 この少女には、そのヴィーカと同じ超俗的な空気感が漂っている。
 天使のような容貌と声に、ヴィターリーは呼吸をすることさえ忘れた。
 驚嘆すべきはその美声と技術だった。難曲といわれるヤローキンの聖歌のソプラノパートを原曲のキーのまま、楽々と歌いこなしている。都会にはこんな人間がいるのかと、ヴィターリーは驚嘆の面持ちでその少女の歌に聴きほれた。
 サビの部分を唱和しようとしたときだった。

 この世に 幸いあれ
 この世に 幸いあれ
 王女殿下に幸いあれ

 歌詞の「国王陛下」の部分を、少女は「王女殿下」に置きかえて歌った。
 それから二番の歌詞に移った。国王賛歌に二番があることを、ヴィターリーは知らなかった。
 諸外国の国王賛歌は五番まで歌詞があるという話だから、アルトランディア国王賛歌も同じなのかもしれないが、一般に演奏されるのは一番だけだ。

 ただ国王賛歌の逸話は聞いたことがあった。国王ニコライ二世の一人娘、アナスタシア王女が毛嫌いしていたという。
 ヤローキンの逸話なら、ヴィターリーはどんな細かいことでも覚えている。

 心からの願いを聞き届けたまえ
 われらの愛しいアルトランディアの王女殿下に祝福を
 王女よ、国の至宝を守りたまえ
 青きアルトランディアの民を愛したまえ
 あまねく大地に輝かんばかりの祝福を
 守りたまえ その歌声が響く限り

 この歌詞を聞いた王女は激高し、ヤローキンの音楽教師の任を解いたという。
 怒るような内容ではないのではないだろうか。
 ヴィターリーは二番の歌詞を新鮮な思いで聴いた。

 気がつくと、ヴィターリーの後ろには多くの人が集まってきていた。
 感動に打ち震える老婆が少女の手をとり、銅貨を握らせた。
 お金が目的で歌っていたのではなかったのだろう。少女は老婆の様子に面食らっていた。
 めいめいがこの少女に何かを贈りたいと荷物を探りはじめた。つられるようにヴィターリーも懐を探ったが、少女にあげられるようなものは何もなかった。

 そのとき、怒声と共に駅の憲兵が人垣を分け入り、少女の前までやってきた。

「駅前での商売には許可が必要なのを知っているのか?」

 二人の憲兵の剣幕に、周りにいた人々は無関係とばかりに一瞬で散った。

「親玉は誰だ!」

 憲兵は少女の襟元を掴んで詰問した。

「知らない。……歌いたかっただけ……。歌わないと見つけてもらえないから……」

 かすれるような少女の声にヴィターリーは我を忘れ、憲兵にとびかかっていた。
 格好よくタックルしたつもりだったが、頭で思い描いたのとは違い、憲兵の足元に転がりこんだだけだったのだが。

「何をするんだ!」

「こ、この子はただ歌っていただけだ。何も悪いことはしていない……」
 自分の咄嗟の行為に自分で驚きながらも、ヴィターリーは憲兵に対峙した。

「こいつは昨日もこうやってここで歌って商売していたんだ。身分証明書も持っていない。身寄りのない子はしかるべき施設で保護せねばならん。ほら、名前を言え!」
 憲兵に問い詰められても、少女はきゅっと唇を結ぶ。
 憲兵は少女の細い腕をねじり上げると、どこかへ連れていこうとした。

「手荒なことはやめてくれ。私がこの子の保護者だ!」

 言った瞬間、ヴィターリーは顔が熱くなるのを感じた。
 なぜこんなことを口走ったのかはわからない。
 その少女を救いたかった。いや、違う。その少女と離れたくないと思った。
 今離れてしまったら、もう二度と、彼女と会えなくなる。彼女の歌を聴けなくなる。そう思ったら、絶対に彼女を守らねばならないと思った。

 どうしたのだろう。凍えて頭がどうかしてしまったのだろうか。そんなこと、これまでの人生で一度も思ったことはなかったのに。

「貴殿の身分証は?」

「持ってます」

 旅券を差し出すと、一瞥した憲兵は慌ててヴィターリーに敬礼し、立ち去った。その旅券は身分証明書としてもかなりの効果があるものらしかった。

 少女の掴まれた手首は赤く腫れていた。近くで見ると、少女はヴィーカと似ていなかった。きれいな顔をしていたが、柔らかな印象のヴィーカと違い、どこか硬質な感じがした。
 なぜ似ているのと思ったのかはわからなかった。

「おばあさんに返さないと……」

 少女の手には銅貨が握られたままだった。周囲を見回したが、憲兵の剣幕に追い払われたのか、広場には二人以外、誰も残っていなかった。
 少女は溜息をつき、どこかへと歩きはじめた。
 ヴィターリーは鞄を持つと、そのあとを追った。

「きみ、今のはヤローキン先生の国王賛歌だよね。きみは音楽院付属の音楽学校の生徒さんなのかい?」

「音楽院?」

 少女は立ち止まる。ヴィターリーの質問は的をはずしてはいないはずだった。
 この少女の歌は、正規の教育を受けた歌い方だった。この国で音楽の専門学校は王立音楽院付属学校しかない。
 少女は首を横に振った。

「どこであの歌を習ったんだ?」
「あの歌は――アナイ・タートが歌っていたから聞いて覚えた」
「アナイ・タート?」
「鏡の館の住人」
「鏡の館?」
「アナイ・タートと私が住んでいたところ」

 れっきとした王都の言葉を話しているのに、少女の言っていることはヴィターリーにはちんぷんかんぷんだった。
 アナイ・タートという名前もアルトランディア王国の名前らしくない。外国人なのだろうか。

 思案していると、
「アナイ・タートはもういない。誰よりも歌が上手だったのに……。もう歌えない……。私が殺したんだ……」

 少女はポツリと呟き、寒そうに体をさすった。
 そこではじめて少女の服装がヴィターリーの目に入った。

 身につけているものはドレスの下に着る下着のような薄手のワンピースで、その裾は泥で汚れている。上半身にはニットのカーディガンを羽織り、首にマフラーを巻きつけている。足に冬用のブーツを履いているが、この少女の靴にしては大きすぎた。着の身着のままユヴェリルブルグに逃げてきたのだろう。

 アナイ・タートというのは一体誰のことかよくわからなかったが、おそらくは王都の暴動で亡くなったのだろうとヴィターリーは推測した。
 少女が殺人をおかすようには見えなかった。

「いずれにしても、こんなところにいたら風邪を引いてしまう。教会にでも行かないか」
「……行けない。私はここで人を待っている」
「誰? 両親とはぐれたのか?」

 少女は首をふった。

 逡巡した末に、思いがけない名前を口にした。

「……ヤローキン」

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #09」(第一章 ヴィーチャとAの出会い 3)


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