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青の緞帳が下りるまで #07
←(前回)「青の緞帳が下りるまで #06」(展示品一 アルトランディア王国の金貨 マエストロからの寄贈)
第一章 ヴィーチャとAの出会い 1
時は四十年前に遡る。
一九一四年、一月六日。早朝。
若き作曲家ヴィターリーは早朝、激しいノック音と「まもなくユヴェリルブルグ到着です」という車掌のぶっきらぼうな声で目を覚ました。
(宝石の街)……?)
霞のかかった頭に、車掌のアナウンスが再現される。
(ユヴェリルブルグだって?)
ヴィターリーは寝台から飛び起き、窓のカーテンを開けた。
外は一面の銀世界。雪を見たのは、生まれて初めてだった。
ユヴェリルブルグはアルトランディアの西国境である。列車は王国の北、王都カロリスコエ・セロー行きのはずだった。もしかして寝過ごしてしまったのだろうか。
ヴィターリーの顔からさっと血の気が引いた。
(ヤローキン先生に会えないじゃないか)
ヴィターリーの一等車両は個室で、同室に確認できる相手がいない。
(まずい。これはまずいぞ)
ヴィターリーは上着を着ると、個室の外に出た。切符を挟んだ旅券を握りしめて。
それもこれも幼馴染のミーチャが手配した青色の旅券のせいだった。
――お前が行きたがっていた音楽祭に参加できる機会を用意した。ただ訳があって旅券の期限が短い。今すぐこの旅券を提示して、切符を買い、国外に出ること。
どこで入手したものか、その旅券には様々な特権がついていた。
東国境の駅で、一番安い切符を買おうとしたのに、駅の窓口で旅券を提示するやいなや、一等車の、それも貴賓用個室に押し込められた。列車の切符も、食事もすべて無料だった。
故郷オゼルキ村で一番の出世頭とはいえ、王立軍の少佐に過ぎないミーチャがどういった経緯でこの旅券を入手したのだろう。王都でミーチャに再会したときにお礼かたがた聞き出すつもりではいたが、憧れの作曲家ヤローキンに会えるかもしれないという興奮で、瑣末な疑問を脳の片隅に追いやってしまった。
アルトランディア王国では国内の移動にも、旅券と旅行許可証が必要となる。
旅行許可証の期限は一週間。
つまり一週間は国内を自由に移動できるということだ。
それを知った瞬間、ヴィターリーは飛び上がって喜んだ。
一週間あれば、西国境から国外に出る前に、王都に立ち寄ることができる。王宮勤務のヤローキンに会えるかもしれない。
金にできるものは全て金にかえ、中古で買ったトランクにこれまでに作曲した楽譜をすべて詰め込み、ヴィターリーは列車に飛び乗った。
楽譜の中にはヤローキンに献呈するつもりで書いた作品もあった。ヤローキンの数々の作品の主題を借りてオーケストラ用に編曲した、もっとも力の入った大作だ。
ヤローキンがこれを目にしたとき、どんな感想を言うか、そして自分はそれにどういう受け答えをするか。会話を妄想しながら、丸二日間列車で過ごした。
神経が高ぶりすぎて眠れず、個室にあったワインをいただき、やっと寝ついたときに車掌に起こされた。
ヴィターリーは上着の胸ポケットから切符を取り出し、確認する。列車の終点は確かに王都カロリスコエ・セローの中央駅となっていた。
(どういうことなんだ)
ヴィターリーは左右にゆるやかに揺れる車内を移動する。
車掌は、ほかの乗客に捕まり、説明に追われていた。
「緊急事態です。王都の中央駅の機能が麻痺しております。王都周辺はリトヴィス軍に占領されたとの報もあります。繰り返し申し上げますが、緊急のため、そして皆様の安全のため、列車の行き先を一旦ユヴェリルブルグに変更いたしました」
車掌は壁に貼られた地図の前に立ち、王都カロリスコエ・セローとユヴェリルブルグの位置を指さした。
アルトランディア王国の王立鉄道は南の湖群に沿って、東西に走る。もともとは、アルトランディア王国と隣国リトヴィスの国境に跨る東南のヴォストク鉱山の鉱石を北部の王都、西部に運搬するために敷かれた鉄道である。
ヴィターリーの乗った列車は二駅前のユジヌィ駅を通過後、右折し、王都に向かって北上する予定だったが、ポイントの切り替えが行われず、そのまま西の終点駅ユヴェリルブルグに向かった。
車内の混乱を最小限に防ぐため、目的地の変更はぎりぎりまで伏せられていた。夜間であったことが幸いし、異変に気づく乗客は、ヴィターリーを含め、誰もいなかった。
「緊急事態ならなおさらです。いくらでもお支払いします。今すぐ王都に引き返してください。娘が出迎えに来ているはずなんです。連絡手段はないのですか?」
「王都が一大事なら尚更王都に行かねばなりません。私の親戚がいるんです」
乗客に詰め寄られても車掌は頑として首を縦にふらなかった。
「王都周辺でトラブルが発生した場合、ユヴェリルブルグ駅に向かうように規則で決まっております。現在、王都行きの列車は出ておりません」
「それならせめて、ユジヌィ駅まで引き返すことはできないんですか? そこからなら王都までなんらかの交通手段があるでしょう」
「規則ですから、当列車はユヴェリルブルグに向かいます。ユヴェリルブルグ駅で降りられた後はお客様の自由になさって結構です。ただ、ユジヌィ駅に行かれても、そこには宿泊施設等はございませんので、自己責任でお願いいたします」
「切符の払い戻しはあるのですか?」
「払い戻しは一切お受けすることはできません。今日の切符を提示していただければ、後日、王都行きの列車が再開した際、自由席の車両にご乗車いただけます」
「王都行きの列車はいつ出るのですか?」
「現段階では未定です」
「あの……」
押し問答の間隙をついて話しかけたヴィターリーの顔とその旅券を見て、車掌はほっとしたように言った。
「ああ、あなたの旅券なら大丈夫ですよ。ユヴェリルブルグの先の列車に乗ることができます。王立鉄道の西の終点駅はユヴェリルブルグですが、その先はサルティコフ大公の私鉄サルティコフ線が入っており、西欧に抜けることができます。ユヴェリルブルグ駅前広場に一等車の貴賓客用の特別施設がありますので、降りられたらまっすぐそちらに行かれてください」
乗客たちは羨ましそうにヴィターリーの旅券を見つめたあと、すぐに訝しそうな顔をした。特別処遇に相応しそうな外見ではなかったからだ。
ヴィターリーが鉱山労働者の多い東部出身であることは、日に焼けた肌と赤茶けた髪で、誰の目にも明らかだった。身につけているものはどれもこれも借り物のように体に合っていない。上着は短すぎ、ズボンは長すぎた。ニットのベストは毛羽立ち、袖口には毛玉が見える。下のシャツもアイロンがあてられていないのか襟がよれよれだ。
だが、独特の浮世離れした雰囲気もあり、そこが富豪や貴族の御曹司のお忍び旅行姿に見えなくもない。すれ違う乗客たちはそのようにヴィターリーを評した。
個室に戻ったヴィターリーは荷造りをしながら、旅券とそれに貼られた王国内の旅行許可証を見直した。
東部のルミャンツェフ大公領と王都カロリスコエ・セローだけでなく、西部のサルティコフ大公領内の安全かつ無償の移動が保証されるという但し書きが添えられている。
寝起きの頭に、難しいことは、理解できない。
「まあ、ユヴェリルブルグに着いたら何とかなるだろう」
ヴィターリーはひとりごち、旅券を上着の胸ポケットにしまった。彼はその旅券の裏に貼られた青い円形のシールにまだ気づいていなかった。
列車が止まったユヴェリルブルグの街はその名が示すとおり、宝石《ユヴェリル》の街だった。
ヴィターリーの出身である東南のヴォストク鉱山地帯を宝石の原石の街とするならば、西のユヴェリルブルグはカットされ、磨かれ、加工された美しい街。
人口三万人ほどの小さな街だが、欧州からの観光客が訪れることもあり、人々は都会的で洗練されている。宿泊施設や官公庁が軒を連ねる駅前広場を中心に、放射線状に広がる道路網。街全体に石畳が敷き詰められ、雪道でも歩きやすいように整備がほどこされている。
木造建築が多い東部と違い、雪深いこの街は煉瓦造りの建物が主だった。その煙突からは白い煙がたなびいている。
何よりも目に飛び込んでくるのは青色だ。
ヴォストク鉱山から産出される希少種のブルートパーズの色。
アルトランディア王国の国旗の色でもある青色が建物の屋根や壁に塗られている。建物の周囲に張りめぐらされた白壁には、青い染料で花や植物をモチーフにした装飾が描かれている。
早朝の薄暗い空の下、点された街灯の光で白い雪と建物の青色が宝石のように輝いている。
新年を祝う飾りつけがそこかしこにめぐらされ、駅前広場には巨大なクリスマスツリーが聳えている。
王立鉄道駅のプラットホームに降り立ったヴィターリーは寒さも忘れ、その幻想的な街並みを眺めた。
平常時ならば諸外国で「青い宝石」「青い街」と称されるその美しい街を散策し、観光を楽しめたかもしれないが、この日は違った。
駅の建物に入った瞬間、ヴィターリーの耳に怒号が飛び込んできた。夜通し列車を待っていた人たちだ。
この街の人たちにも非常事態のことは知らされていなかったのだろう。列車から下りた乗客たちから話を聞くと、騒ぎは更に大きくなった。
「王都がリトヴィス軍に占領されたのなら、この国は終わりだ」
「国外に逃げるなら今だ」
「サルティコフ線なら外国に抜けられる列車が出ているはずだ」
「あの……」
話しかけるにも、動揺している人たちは自分のことで精一杯だ。皆、ヴィターリーを押しのけ、隣接するサルティコフ大公所有の私鉄駅に走った。ヴィターリーもその後を追ったが、駅はもぬけの殻だった。
王立鉄道駅もヴィターリーたちが乗った列車を最後に閉鎖された。列車がホームに入っていても、臨時政府の命令で動かすことができないのだという。
年明け、どこの施設も休みの札を掲げている。
駅前に号外新聞を抱えた少年が現れると、皆先を競って買い求めた。
「なんてこった……」
読み捨てられた新聞を拾い上げたヴィターリーは一読すると、天を仰ぎ、神に祈った。
新聞の見出しはどれも衝撃的なものだった。
『国王暗殺、劇場爆破、王都炎上、死者多数。革命か? 王都はリトヴィスの占領下』
ヴィターリーは震える指でその先を追った。
毎年新年に行われる王立劇場での国王即位記念式典。そこで国王ニコライ十世が暗殺された。首謀者は反リトヴィス派の愛国主義の若者たち。長年の敵国リトヴィスの王女を王妃に迎え、リトヴィスの血を引いた王女を後継に宣言した国王に異を唱えての犯行だった。
国王暗殺後、鉱山用ダイナマイトで劇場を爆破。政府高官、貴族、各国の招待客に多数の死者が出たという。
この王都の混乱を鎮圧したのがリトヴィス軍である。リトヴィス軍とアルトランディアのゲリラ軍の徹底抗戦は丸一日に及び、王都の中心部は壊滅状態になった。
幸いにも劇場に居合わせなかった貴族の将校たちが王都にある宰相ルミャンツェフ邸に臨時政府を設置したが、そこもまたリトヴィス軍に制圧されたという。
ルミャンツェフ大公の係累は皆捕らえられ、王国東部に広がる彼の広大な領地はリトヴィス軍におさえられた。
戦火を逃れ、王都から逃げ出してきた人が、この西のユヴェリルブルグを目指しているという。国の北東南部がリトヴィスの占領下に置かれた今、逃げこめる先は、現在、唯一の王位継承権を持つサルティコフ大公の膝元のこの街しかないからだ。
「これもなにもかもアナスタシア王女のせいだ。噂では婚約者までリトヴィス人だそうじゃないか」
「すべてはリトヴィスの王女を王妃に迎えたからだ」
人々は口々に罵倒した。
「我が国は遅かれ早かれ、リトヴィスに支配される運命だったのか」
「リトヴィスの王女のせいでリトヴィス兵に殺されるのだけはごめんだ」
西欧に脱出するといってもこの時代、誰もが簡単に国外に出られるわけではない。アルトランディア王国では国外に出るためには旅券のほかに、王国政府が発行した旅行許可証、いわゆる出国査証が必要となる。
今、皆が血眼になって求めているそれを――ヴィターリーは持っていた。
――今すぐ、国外に出るんだ。
(ミーチャはこのことを予想していたのだろうか)
三歳年上のミーチャは、ヴィターリーの姉ヴィーカを挟んで、実の兄弟のように仲がよかった。ミーチャは学校の成績もよく、文武両道に秀でており、村の誇りだった。
王立軍に志願し、王都に移ってからもなお、何かにつけ、オゼルキ村に残ったヴィターリーを気にかけ、世話を焼いてくれた。幼い頃は気づかなかったが、姉ヴィーカとミーチャは恋人関係ではなかったのかと思う。
音楽にしか興味を示さないヴィターリーに理解を示してくれたのは、ヴィーカとミーチャの二人だけだった。
しかし、ヴィターリーがまだ十歳のとき、村で惨劇が起きた。
オゼルキ村にリトヴィスの軍が攻めてきたのである。それはいつまでたってもリトヴィスの傘下に入らないアルトランディアに対する見せしめの攻撃だった。
王立音楽院付属音楽学校の試験を受けるため村を出ていたヴィターリーは奇跡的に難を逃れたが、村の大半は焼かれ、逃げ遅れたヴィーカは命を落とした。
そのとき、どこからか軍服姿のミーチャが現れたのだった。彼は憔悴した顔でヴィーカの亡骸を抱きしめ、くりかえし自分のふがいなさを詫びると、号泣した。
そのときのことを思うと、ヴィターリーの胸がひきしぼられる。
ミーチャが悪いわけではない。彼ははるか遠い王都勤務だった。
それにたった一兵が駆けつけたところで村を救えたとは思わない。
しかしオゼルキ村を、愛するヴィーカを守るために軍に入ったミーチャの耳に、周囲の人の言葉は届かなかった。
悲劇には悲運も重なり、ヴィターリーに音楽学校の合格通知は届かなかった。
ヴィターリーの書類にしかるべき音楽院卒の音楽教師の推薦状が添付されていないのが最たる理由だと知り、ミーチャは怒りくるった。
ミーチャはヴィターリーの才能を惜しみ、王都から教材や楽譜を送ってくれた。王宮勤務の作曲家ヤローキンにファンレターを届けてくれたのも彼だった。
雲の上のような存在のヤローキンから返事が届いたときには手が震えたものだった。
何度かの文通のあと、会いたいと思い切って告白したところ、「年末から新年にかけては国王即位十三年記念式典の音楽祭の準備で忙しいので厳しいだろう」という返事がヤローキンから返ってきた。
断りのような文句に思えたが、裏を返せば、音楽祭が終われば時間ができるということ。ヴィターリーはそのように解釈した。
ヤローキンからの返事とほぼ同時に、ミーチャからのドイツ留学を促す手紙が届いた。同封された旅行許可証があれば、王都までも自由に旅行できる。
留学期間は三年以上とあった。ならば国を離れる前に、一度、ヤローキンに会っておきたかった。旅行許可証の有効期間は十日間。
王都でヤローキンに会い、王都中央駅からドイツ行きの列車に乗る。一月十日までにアルトランディア王国を出ればいいのだから、ぎりぎりで間に合うはずだった。
決断してからのヴィターリーの動きは早かった。ヤローキンに会うべく、これまで手がけた作品を清書した。王都での滞在費用は極力節約したかった。音楽祭が終わる一月六日に王都に着き、ミーチャを訪ねる。突然の訪問も日程変更も説明すれば許してくれるだろう。ミーチャに頼み、ヤローキンへの面会を求める。四日もあれば、きっとヤローキンに会えるだろう。もし会うことができたら、弟子入りを志願するのだ。
二日前までそういう計画を立て、妄想を膨らませて楽しんでいたのが嘘のようだった。
すべては終わった。
劇場爆破。多数の死者。
国王の音楽師範で式典の中心人物だったヤローキンが、劇場にいないはずがなかった。
ヴィターリーは新聞を手に、ユヴェリルブルグ駅前広場で呆然と立ち尽くした。
白い絶望の粉雪がゆっくりとヴィターリーの体に降り積もっていく。
王都のミーチャは無事だろうか――。
心は王都に飛んでも、体は動くことができない。体の奥からもどかしさと苛立ちと、絶望がおしよせる。
国王崩御の報を受け、慌てたように打ち鳴らされる教会の鐘。
静かな国境の街は緊迫した雰囲気で包まれた。
二日間、列車の中で安穏と過ごしていた間、外の世界ではとんでもないことが起きていたのだ。
→(次回)「青の緞帳が下りるまで #08」(第一章 ヴィーチャとAの出会い 2)
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