見出し画像

青の緞帳が下りるまで #15

←(前回)「青の緞帳が下りるまで #14」(第三章 再会と潜伏生活 1)

第三章 再会と潜伏生活 2

 ヴィターリーが目覚めたとき、暖炉の火は消えていた。
 その場所はやけに静かだった。昨日まで列車の走行音を聞き続けていたからかもしれない。
 楽屋の小窓から雪が降っているのが見えた。人の往来はなかったが、相当の時間が経過したに違いない。二人が劇場に入ったときについた足跡は新雪に埋もれ、消えていた。

 ヴィターリーは空腹を覚え、部屋を出た。隣のサーシャの部屋の扉をノックしたが、返事はない。まだ寝ているのかと思ったが、扉の奥に人の気配はない。
 思い切って開けると、その部屋はもぬけの殻だった。

(騙されたのか? もしかしてあれが噂に聞く窃盗団なのか?)

 ヴィターリーは部屋に戻り、トランクをひっくり返した。
 都会にはスリや盗みを働く人たちがいるという話を、王都のミーチャから聞いたことがあった。その土地の窃盗団は女な子供を使い、相手を油断させたところで金品を盗むという。

 楽屋の鍵を閉め忘れていたが、ヴィターリーが寝ていた間にトランクが開けられた気配はなかった。幸い、現金はすべて残っている。旅券も、大事な楽譜もある。
 昨日のあの子は、夢か幻だったのだろうか――。そう思っていたときだった。
「ただいま」という声が廊下から聞こえた。
 サーシャが裏口から戻ってきたのだ。昨日と同じ服で、食料の入った袋を抱えて。
 開け放たれた扉の中をのぞきこむと、

「ああ、もう起きたの?」

 口も利けないヴィターリーを見て、サーシャは笑った。

「そ、そ、そ、それは……」
「角の食品店で買ってきた。一時間だけ店を開けるという話だったから」
「お金、持っていたのか! もしかして昨日の銅貨で!」
「おばあさんにもらった銅貨は使ってないよ。だけど、その前の日にもらったものが――」

 サーシャが上着のポケットを裏返すと、ちゃりんちゃりんちゃりーんと音が響き、コインが床を跳ねた。そのまばゆい光に、ヴィターリーは目を丸くした。
 アルトランディア国王の横顔が刻印された金貨だ。こんなもの、村で一度も見たこともなければ、手にしたこともない。
 ヴィターリーの半年の収入に匹敵するものが。一枚、二枚、三枚……十枚も。
 拾い上げたヴィターリーの顔を見て、サーシャは言った。

「歌っていたらくれたんだ。返さなくていいって言われたから、もらったんだけど、あとで憲兵に追いかけられた」

 ヴィターリーは開いた口がふさがらなかった。
 そりゃそうだろう。田舎者の自分でもわかる。こんな大金を、こんな年の子が持っているなど、裏があるとしか思えない。それでなくても、あんな場所で歌っていたら、商売しているようにしか見えない。ミーチャに聞いた話だが、ものや芸を売っているのは表向きで、実は売っているものは別ということもある。大人が子供に商売をさせることもあるという。

「サーシャ、その……私が言うようなことではないが、自分の体は大事にしたほうがいい……んじゃないかな」

「喉には気をつけているよ」

 そう言うと、サーシャはマフラーを首にまきなおした。

「こんなにいらないから、よかったらあげる。きれいでしょ?」

 ヴィターリーが手にした金貨から一枚だけとると、サーシャは言った。
 掌の上の金貨を見つめ、ヴィターリーは絶句する。きれいとかきれいじゃないという問題ではないのではないのだろうか。この子は一体、何者なのだろう。

「もらうわけにはいかないよ。サーシャが正当に稼いだ賃金ならなおさら」

「いいよ。本当にもらったものなんだ」

 サーシャは窓から駅の方向を見た。

「一昨日、たくさんの貴族の人たちが最後の列車に乗って国外に出て行った。私が駅前で歌っていたら、それをくれたんだ。もうこの国に戻ってこないからいらないって……。一緒に行こうと言ってくれた人もいたのだけど、私は旅券がないから乗れなかった」

 サーシャは寂しそうに微笑んだ後、ヴィターリーに言った。

「でもいいんだ。私はここでヤローキンを待たないといけないから」

***

「厨房はこっちだよ」

 サーシャは床に散乱する瓦礫や舞台装置をかき分けながら、劇場の奥に入っていく。ヴィターリーはサーシャの作ってくれた道をたどる。

 サーシャは内部を散策済で、目的地にはすぐにたどり着いた。
 劇場の二階に改修済みのレストランがあり、そこに調理道具と食器が揃っている。厨房もあるが、ガスは通っていなかったため、必要な道具を確保すると、二人は一階のヴィターリーの部屋に戻った。

 サーシャは紙くずと木切れを順番に暖炉にくべ、火をつけると、手馴れた様子でそこに空気を送り込んだ。
 パチッ、パチッと音を立てて火花が散り、部屋がたちまち暖まる。ヴィターリーが手伝う隙はなかった。手伝ったところで作業の邪魔になるだろうから、おとなしく部屋の隅でサーシャがすることを見ていた。

 サーシャは鉄鍋に水を入れ、湯を沸かした。
 買い物袋から紅茶の葉の入った小袋をとりだすと、小匙で計ってポットに入れ、お湯を注ぎ、丁寧に抽出する。それをあらかじめ温めておいたカップに入れてヴィターリーに差し出した。

 ヴィターリーが紅茶を飲んでいる間にフライパンを熱し、卵を焼いてオムレツを作り、黒パンの塊を薄く切り分け、チーズとハムをのせて簡単なオープンサンドを作った。
 食べられるものが出てくるさまは、魔法を見ているようだった。
 味も申し分なかった。家事などやったことないというような外見をしているのに――。

「仕事だったから、慣れているんだ」

 ヴィターリーの顔を見て、サーシャはじゃがいもの皮をむきながら言った。
 この年で仕事?
 ヴィターリーは考える。彼女は謎だらけだった。
 学校に行かせず、働かせていたのだろうか。鉱山でも小柄な体型の子供を働かせることはあるが――。

「……もしかして仕事をしていたのは、鏡の館っていう所?」

 ヴィターリーはサーシャに訊いた。

「そう。何で知って……あ、そうか。昨日話したんだったね」

 サーシャは鏡の館にいた。そこでの公式の名前はルドナスケラだったという。

「そこは――ホテルか何かそういうところなのか?」

「うーん……よくわからないけど、学生寮みたいって言う人はいた。一階にエントランスがあって、守衛と鍵番がいて、食堂ホールがあって、二階と三階に住む部屋がある」
「ホテルだな」
「ホテルなのかな……」

 サーシャは小首を傾げた。

「そこにアナイ・タートが住んでた。私は皆のお世話をしていたんだ。食事の配膳をしたり、掃除したり、郵便物を配ったり……」
「アナイ・タート?」
「歌手だよ」

 サーシャの説明は要領を得なかったが、要するに『鏡の館』という名のホテルか賄い付きの共同住宅みたいなところなのだろう。大都市の高級ホテルを、一流の人たちが自宅代わりに使うこともあるという。そのホテルでサーシャは住み込みで働いていたということなのだと、ヴィターリーは理解した。

「ああ、そこにヤローキンの部屋もあったよ」

 サーシャはぽつりと言った。

「ヤローキン先生の?」

 ヤローキンの名を聞いてヴィターリーの胸が高鳴った。
 文通の受け渡しをしてくれているミーチャにいくら訊いても、ヤローキンの所在は教えてもらえなかった。ヴィターリーはサーシャに詰め寄った。ミーハーだと思われても構わない。ヤローキンのことならどんな小さなことでも知りたかった。謎に包まれた伝説の作曲家の私生活とはどんな感じなのだろう。

「ああ、住んでいたといっても、ヤローキンはいつもそこにいたわけじゃないよ。ヤローキンには別の場所に家があって、そこは仕事部屋として使っていたんだ。鏡の館に来るときはいつも締め切りに終われてた。修羅場になると手当たり次第に住人を捕まえて、助手をさせた。子供の私を捕まえて楽譜の清書をさせたりもした」

「なんて羨ましい!」

 ヴィターリーは思わず叫んでいた。
 その鏡の館とはどこにあるのだ。場所さえわかれば、自分がそこの住人になりたいくらいだ。ヤローキンの作曲(しごと)ぶりが間近で見られるなんて、そんな至福なことがあるだろうか。

「ヤローキンはそこで歌曲をたくさん書いていたよ。同じ階に住んでいる詩人が詩をつけて、完成した歌をアナイ・タートに歌わせる。ヤローキンが書いた作品にアナイ・タートが命を吹き込むんだ。彼女の歌声は……たとえようもないくらい美しくて……どこまでも高く澄んでいて……いつも、ああいう風に歌えたらと思っていた」

 サーシャは懐かしそうに笑ったが、その青い目に憂いの色が差した。

「どうかしたのか?」
「……二日前、アナイ・タートは王室劇場の舞台でヤローキンの国王賛歌を歌うことになっていたんだ」
「王室劇場というと、即位十三周年記念式典の?」

 訊ねると、サーシャはうなずいた。

「ずっと待ち望んでいた舞台だった。皆アナイ・タートが歌えることを聞いて喜んだ。アナイ・タートは十三年もこの舞台を待ち望んでいたのに、それなのにアナイ・タートは……」

 死んだのだと……。
 吐き出すように言うと、サーシャの両目から堰を切ったように大粒の涙が零れ落ちた。
 アナイ・タートという歌手は、国王暗殺事件に巻き込まれ、劇場の爆破と共に命を散らしたという。国王賛歌は国一番の歌手が歌う作品。それを歌う予定だったということはよほど優れた歌手だったのだろう。その歌手がサーシャにとってどれほど大切な人だったのかはサーシャの様子でわかった。

 子供なら声をあげて泣き喚くところだろうに、サーシャは泣きながらも声を押し殺した。その大人びた様子に、ヴィターリーは何も言えなくなった。

 不謹慎だが、サーシャの零す涙は宝石のようにきれいだった。
 サーシャはこぼれ落ちる涙をぬぐうことなく、言った。自分に言い聞かせるように。

「……だから、私はヤローキンに会って、謝らないといけないんだ。アナイ・タートを殺したのは私だから」

「サーシャは何もしていないだろう? 亡くなったアナイ・タートさんには気の毒だが、劇場爆破事件は誰にも防ぎようがなかったんだ」

 サーシャは首を横に振った。

「私が原因なんだ。私が歌わなかったら――私が歌いたいと思わなかったら……アナイ・タートは死ぬことはなかった。アナイ・タートだけじゃない、ほかの皆も……。だからこそヤローキンはアナイ・タートを舞台で歌わせたくなかったのに」

「サーシャ?」

 ヴィターリーは狼狽した。サーシャの言っている意味はわからない。サーシャの歌と劇場爆破事件には、何の関係もないように思える。おそらく大切な人を亡くしたショックで、強い自責の念にかられているのだろう。
 この華奢な少女が人殺しには到底見えなかった。

 慰め方がわからず、ヴィターリーはサーシャが落ち着くまで、その頭を撫で続けた。
 昔、そうしてくれたのは、ミーチャだった。
 姉のヴィーカが亡くなった直後、ヴィターリーは姉が死んだという現実が実感できなかった。葬儀が終わり、ミーチャの家に連れて行かれたときに、ようやく違和感に気づいた。これからここに住むのだと言われた部屋には、どこにもヴィーカがいなかった。どこからか用意されたピアノはあるのに、それを弾く人がいない。
 そのとき初めてヴィーカがいないということが実感となってこみあげてきた。
 ヤローキンの聖歌を子守歌に歌ってくれる人はいない。二度と彼女に会うことができない。永遠に喪われてしまった。
 あんなに泣いたのは、生涯初めてだった。
 そういえば、自分もミーチャに「自分のせいでヴィーカが死んだ」と訴えていたかもしれない。自分が音楽学校の試験に行かなかったら、ヴィーカを助けてあげられたのに――と。
 ミーチャは一晩中、ヴィターリーの頭を撫で続けてくれた。
 その手の温かさで、やっと眠ることができたのだった。

「もう一杯、飲む?」

 すすめられてヴィターリーは紅茶をおかわりした。サーシャは胸のわだかまりを涙と共に流してすっきりしたのか、照れくさそうに笑った。

「食事が終わったら、駅前広場に行こうと思うんだ。今度こそヤローキンがいるかもしれない。一緒に行く?」
「またそこで歌うのかい?」

 サーシャはこくりとうなずいた。

「ほかに方法がないから」

 駅に伝言板のようなものがなかったのは確かだ。しかし王都からの列車は止まっている。乗客の降りない駅で歌い続けるのは無意味な気がしないでもないが、説明しても、サーシャは頑として聞かなかった。

「ヤローキンが約束してくれたんだ。新年の記念式典が終わったら、ユヴェリルブルグの劇場の舞台に立たせてくれるって」
「劇場? その劇場ってまさか」

「ここのはずなんだけど……」

サーシャの話を聞き、ヴィターリーは二の句が告げなかった。 この劇場の荒廃具合からいって、まともな演奏会を開催できる場所ではない。 ヤローキンのことを悪く言うつもりはないが、騙されたのではないだろうか。それか舞台に立ちたいとせがむサーシャを断る口実で適当な劇場の名前を出したとのではないだろうか。

「だからヤローキンは絶対にここに来るはずなんだ」

 サーシャの言葉は信じがたかった。嘘をついているようには見えなかったけれど。

「ヤローキンは生きることだけを考えていた。一日でも長く生きて音楽を書くんだって。彼は死んだりなんかしない。ほら、ヴィーチャだって、ヤローキンに会いたいんだよね? そもそも何の用事でヤローキンに会うつもりだったの? これまでヤローキンに面会人なんて一度も見たことなかったよ」

「ああ……」

 言われてヴィターリーはここまで持ってきたトランクのことを思い出した。楽譜のことを忘れるなんて、どうかしている。

「言ったと思うけど、私は作曲家なんだ。ヤローキン先生に見てもらおうと思って、作品を持ってきた。あと、二、三、先生に聞きたいことがあって……」

「へえー。見ていい?」

 トランクから楽譜の束を出して見せると、サーシャはヴィターリーが許可を出す前にそれを取り上げ――歌いはじめた。

 ヴィターリーの背がぞくりとした。昨日の歌声は幻ではなかった。 異次元の声だ。鼻歌のような声なのに、聞き惚れてしまう。 サーシャの声は表現豊かで、一音、一音、正確な音程を保っている。

「これ、ヤローキンのオペラの主題を使った変奏曲なんだね。ああ、ホルンに旋律を歌わせているんだ。ここの展開がおもしろいね」

 ヴィターリーは空恐ろしい思いがした。 なんなんだ、この子は。あいた口がふさがらなかった。 一流の歌手のように歌ったかと思うと、いっぱしの評論家のような口をきく。そのくせ、批評は的確で、まるでヤローキン本人と対峙しているようだ。

「このアリアの楽譜は出版されていないはずだけど、どうやって入手したの?」
「あ……。ああ、耳で覚えて書き写したんだ。隣村の音楽祭で二回聞いただけだから、うろ覚えのところもあるかもしれないけれど」
「ううん、いいよ。サビは間違ってない」
「それはどうも」
「この和音はどうして? これだと解決にならないよね。あえて不協和音を入れたわけ?」
「ああ、それは……だね……」

 ヴィターリーはしどろもどろになる。まるで立場が完全に逆転したようだ。

「あ、ここはね、原曲ではアルペジオが入っているんだけど、これでも悪くないよ。すごい。ヴィーチャって才能あるよ!」

 目を輝かせるサーシャに対し、それはあなたの方です、とヴィターリーは言いたくなった。と同時に思い上がっていた自分が恥ずかしく思えてきた。 村では神童と呼ばれたこともある。音楽と作曲の才能では誰にも負けないと思っていた。だが、それは単に世間を知らなかっただけなのだ。

 聞けばサーシャはホテルの下働きだというのに、歌えば並の歌手以上にうまい。楽譜もすらすら読める。対位法も熟知している。ヤローキンのそばにはこんな子供がいたのだ。 音楽学校に行っていない子供でさえ、このレベルなのだから、王都の音楽院というのはどれほどレベルの高いところなのだろう。早まってヤローキンにこの楽譜を見せなくてよかったと、ヴィターリーは心底思った。

 サーシャはなおもヴィターリーの楽譜を見て、楽しそうに歌い続けた。が、急にその声がひっくり返り、咳き込んだ。

「……おかしいな」
「大丈夫か? 寒空で歌ったから、喉を痛めたんだよ」
「そんなはずはないんだけど。喉も痛くはないし。空気が乾燥しているからかな。最近ちょっと高音が出にくいんだ」
「今日は雪もひどいし、駅前に歌いに行くなんて自殺行為だ。プロの歌手になりたいなら、喉を労ってやめておいたほうがいい」

 ここぞとばかりに年長者の威厳を振りかざす自分を、大人気ないとヴィターリーは思った。

「そうだね。アナイ・タートもそう言ったかもね」と、サーシャはとんとんと楽譜の端を揃える。

「あれ?」

 楽譜の束をトランクに戻そうとしたサーシャの青い目は、あるものを認め、大きく見開いた。

「ヴィーチャ、これって」

 ヤローキンの名前が入った、色褪せた封筒の束だ。

「だめだよ。汚れた手で触らないでくれ。これは私の宝物なんだから!」

 そうは言ったものの、ヴィターリーはサーシャに一番上の封筒を手渡した。この手紙の価値がわかる人になら、見せてもいい。

「本当にヤローキンと文通していたんだ! 知らなかった! 変だな。私はヤローキンの郵便物を運んだこともあるけど、ヴィーチャの手紙は見たことなかったよ」

「それは――」ヴィターリーは口ごもる。「ここだけの話だけど、王宮勤務の友人に頼んで渡してもらっていたんだ」
「へえ」
「本当はいけないことらしいんだが、特別にね。ヤローキンから返事が来たときにはまさに天にも昇る心地だったよ」
「すごいね。……あれ?」

 封筒と中の手紙を見比べていたサーシャは一瞬、不審な顔をした。

「どうした?」

「ううん」

 サーシャはごまかすように首をふると、微笑んだ。そして色褪せた手紙を、丁寧にたたみ、封筒の中に戻した。

「ヤローキンからの返事はすごいことだよ。あの忙しい人に手紙を出す価値があったと思われたってことは、やっぱりヴィーチャは凄いんだね」

 サーシャのきらきら光る青い瞳に見つめられ、少しだけヴィターリーの自信が回復してきた。

「ど……どうかな、作曲家としてやっていけると思う?」
「いける、いけるよ。ヤローキンのお墨付きなら断然いけるって」
「私が世界で認められたら、サーシャ、きみを専属歌手として起用するよ」
「本当? 嬉しい!」
「私はドイツに留学するところだったんだ。サーシャも一緒に行かないか!」
「行きたい! ……けど、旅券がないんだ」
「旅券くらいどうにかなるさ。私にはそういうコネを持っている友人がいてね。サーシャの分だってすぐに用意してくれるさ」
「本当?」

「ああ、だから行こう。この国にいても未来はないかもしれない。特に音楽家にとってはつらい時代が到来する。リトヴィスと交戦となると真っ先に切られるのが娯楽だ。私も軍に召集されるかもしれない。そうなる前に、脱出しよう。ほら、乾杯だ!」

 ヴィターリーは紅茶のカップを持つと、サーシャのカップと縁をふれあわした。 鼻歌でヴェルディの「乾杯の歌」を歌うと、サーシャは笑った。なにか思い出すことがあるようだった。 両手でカップを持つと、サーシャは小さく言った。

「行きたいなあ。アナイ・タートも行くことのできなかった外国に」

***

 ヴィターリーとサーシャが紅茶を片手に音楽談義に花を咲かせていたちょうどその頃、二人がいる劇場の周辺をうろつく一組の男女がいた。

「寒イ、ツカレタ、モウ歩ケナイ」
「あともう少しですよ! 入口は封鎖されて入れないとなれば――」
「休ミタイ、オナカスイタ、オ茶ガノミタイ!」
「はいはい、あれ……」

 ミーチャが急に足を止めたため、後ろを歩いていた偽名イーラがミーチャの背中にぶつかり、その反動で雪に埋もれてしまった。

「イタイ、バカ、ブレイモノ!」

 王女様でも罵倒語はしっかり知ってるのかと、どうでも言いことを考えながらミーチャは少女を助け起こす。それからもう一度、劇場の裏側を見た。 サルティコフ大公とその側近しか知らないはずの、秘密通路を使った人間がいる。 裏口に続く小さな足跡。視線を上げると、一階の煙突から湯気が上がっている。

「どうやら、先客がいるようだな」
「ドウシタ?」
「なんでもありません。イーラ様はこちらでお待ちください」
「ヴィーカ ダ!」
「どちらでもいいです」

 懐の短銃を握ると、ミーチャは慎重に建物に近づいた。 小窓から中をのぞいたミーチャは――中にいた人物を見て思わず絶叫してしまった。

「なんでお前がここにいるんだ!」

「ミーチャ!」
「ヴィーチャじゃないか!」

 扉を開け、劇場内の散乱したガラクタをかきわけ、駆け寄り、再会を祝ったミーチャとヴィターリーは同時に叫んだ。

「その女の子は誰だ!」

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #16」(第三章 再会と潜伏生活 3)


ありがとうございます。いただいたサポートは活動費と猫たちの幸せのために使わせていただきます。♥、コメントいただけると励みになります🐱