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青の緞帳が下りるまで #14

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第三章 再会と潜伏生活 1


 芸術と音楽の国と謳われたアルトランディア王国の王都カロリスコエ・セローには、王国の顔である王室劇場を筆頭に、ゆうに三百を超える劇場がある。
 大小さまざまな劇場は、その複合施設と共に国の文化向上のためだけでなく、社交の場、娯楽の場としても利用されてきた。

 劇場の数が多いのは、国境の街ユヴェリルブルグでも同様だった。演劇好きの領主サルティコフ大公が奨励したことも後押しとなり、ユヴェリルブルグの劇場数は小売店や飲食店の数より多いといわれるようになった。
 駅前広場から伸びる目抜き通りに並ぶ重厚な建物も、そのいくつかは劇場だった。駅の建物を背にその通りをしばらく歩くと、進行方向右手に「旧大劇場通り」というややさびれた路地がある。

 かつては王国西部最大の劇場があった通りなのだが、中心部に近代的な劇場が建てられるようになると、その劇場と通りは意義を失った。無駄に大きく、修復費用ばかりかさむその劇場建物は、撤去にも莫大な費用が必要だったため、街の役人たちから完全に見放され、街路樹のかげに隠れ、ひっそりと佇み、ユヴェリルブルグ観光の一名所として訪問客を迎えるだけの存在になった。

 旧劇場と称されるようになった古い劇場の正面入口の扉には板が打ちつけられ、周囲にも立入禁止の札が掲げられている。一見、ただの廃墟にしか見えない建物だが、密かに暮らしている人がいた。

「こっちだよ。静かに」

 サーシャは手招きしてヴィターリーを呼ぶと、扉を押した。

「どこなんだ。ここは」
「劇場の楽屋」
「楽屋?」

 二重になっている扉の裏には、鉄製の暗証番号錠がかけられていたが、サーシャはなんなくそれを開錠した。よく押す数字の場所は磨り減っているため、すぐにわかったのだという。

 サーシャについて歩いてきたヴィターリーは体につもった雪をふりはらう。
 駅前広場近くの近い倉庫から、劇場の楽屋に通じる通路があるなど知らなかった。
 それとも自分が田舎者であるだけで、都会では普通の建物の作りなのだろうか。

「よくこんな場所を見つけたな……」

 サーシャに続き、劇場の楽屋に入ったヴィターリーは感嘆の声をあげた。

「見つけたのは偶然だけど、ヤローキンに教えてもらったことがあったんだ」

 サーシャは守衛室に入ると手探りでスイッチを押した。パッと通路に電気がつき、眩しさにヴィターリーは目を細る。
 電気をつけても灯りが外に漏れることはないようだ。

「この劇場は博物館にする予定で、いくつかの部屋に電気を通したらしい。修繕の見積もりを出したら予算オーバーで、その計画は結局頓挫したようだけどね。ヤローキンはこの場所を残したいと言っていた」
「ヤローキン?」
「そうだよ」
「ヤローキン先生はこの場所を知っているのか?」

 聞き返すと、サーシャは意外そうな顔をヴィターリーに向けた。

「知っているもなにも――ここはヤローキンが処女作の初演を行った、思い出の場所だよ」

 サーシャはヴィターリーを劇場の一階で一番広い楽屋に案内した。
 劇場内の数ある部屋の中でも一番保存状態のいい部屋だった。電気が通っているだけでなく、暖炉も稼働している。ありがたいのは水道が自由に使えることだった。これで湯を沸かすことができる。

 サーシャは衣裳部屋から防寒具になりそうなものを持ってきて、ヴィターリーに渡した。外からの冷気が入ってくるところには布を丸めた物を置いて防ぐ。暖炉に薪をくべ、火を起こす。サーシャは部屋が住める状態になるようにてきぱきと働いた。

「私は隣の部屋にいる。ここは好きに使っていいよ。お休み」

 そう言うと、サーシャは楽屋の扉を閉めた。同じ部屋で休んでもいいのに――と思ったあと、ヴィターリーはサーシャが女の子であることを思い出した。

 ああ、自分が男だから警戒したのか。ヴィターリーは頭をかく。亡き姉やミーチャからも指摘されたが、どうも自分は世間の常識に疎い。

 ともあれ、雪や寒さをしのげる寝床を確保できたのはありがたかった。それも偶然にも、出会った相手はヤローキンと関わりのある相手。
 一人になったあと、ヴィターリーは舞台衣裳を重ね、ベッドを作った。体を横たえると一日の疲れがどっと押し寄せてくる。

 サーシャにいろいろ聞きたいことがあったが、結局何も聞けなかった。彼女は一体何者なのか――。親しそうな口ぶりだったが、ヤローキンとどういう関係なのか――。
 体はもう限界だった。ヴィターリーは重い瞼を閉じた。

 その頃、ミーチャはユヴェリルブルグの外れを少女と手をつないで歩いていた。
 深い雪の上を歩くのは、骨が折れる。それも子連れならなおさらだ。

「要するに――大公は子守をしたくなかっただけのことなんだな。私はこの子を体よく押しつけられたというわけだ」

 少女がアルトランディア語を理解しないのをいいことに、ミーチャはぶつぶつと呟いた。

 失態を許してもらえたのは確かにありがたかった。命拾いしたことも感謝している。しかし、この気位の高そうな少女と一週間、どうつきあっていくべきか。
 ミーチャは内心、大きな溜息をついた。

 何しろこの少女は目立つのだ。きつい顔立ちをしているが、美少女であることは間違いなく、道ゆく人が皆振り返る。
 年の離れた兄と妹のふりをしてみたが、きっと誰の目にもそうは映っていなかっただろう。どう見ても、貴族の令嬢と下僕だ。

 普通の少女が着るような服とコートを手に入れて着替えさせ、帽子とマフラーでその顔を覆ってみても、少女から出る輝きのようなものは隠し切れなかった。
 一番困ったのは、少女がアルトランディア語を話せないことだった。

「ツカレタ。オナカスイタ。何カ食ベタイ」
「はいはい、わかりましたから。お静かに願います」

 リトヴィスが攻めてくるかもしれないというとき、国民の反リトヴィス感情は高まっている。そんなときに往来でのリトヴィス語での会話は危険だ。

 リトヴィス語しか話せない、金髪碧眼、十二、三歳といった年頃の少女。
 ミーチャは灰色の空をあおぐ。
 アナスタシア王女ですと証明しているようなものではないか。

「えー、アナスタシア様」

 ことを穏便にすませるため、ミーチャはできる限りの愛想笑いを浮かべて言った。

「とりあえずせめて名前だけは変えませんか。アナスタシアはアルトランディアではありふれた名前ではありますが、アナスタシア王女を思わせる外見でアナスタシアと名乗るのはどうかと思います」

 少女は無反応だった。

「あの……」
「オ前ノ言ウコトワカラナイ。リトヴィス語デ話セ」
「だからですね、あの、名前、アナタノ名前……」
「私ハ、アナスタシア ダ!」
「そんなことはわかっているんですよ! ああ、こんなことだったら敵国の言葉と思わず、もっとリトヴィス語を勉強しておけばよかった……」

「私ハ、アナスタシア、ダ!」

「いいから、ちょっとお静かに! えーと、名前、ナマエ……アナタ ノ、新シイ、名前……」
「新シイ名前?」
「そうです、そう! 新シイ名前」

「……オ前ノ好キナ女ノ名前ハ何ダ?」

「え、は? 私? 私の?」
「ソウダ」

「え、えーと……ヴィクトリア……」

 咄嗟に浮かんだのは、ヴィーカの名前だった。

「ジャ、私ハ ヴィクトリア。ヴィーカ ト呼べ」

「だっ、駄目です。その名前だけは使ってほしくありません」
「何ダ、何ガ気ニイラナイ。無礼ナ奴ダナ」
「イーラッ、イーラにしましょう。イーラもいい名前ですよ。アナタ ハ イーラ!」

「私ハ ヴィーカ ガ イイ」
「もう何でもいいですから、往来でリトヴィス語を使うのはやめてください!」

「オナカスイタ!」

「わかりましたから! 潜伏場所に着いたらすぐに食事を探しにいきますから!」

 たった三時間、一緒にいるだけで精神が消耗する。
 この少女には自分がリトヴィス軍に捜索されているという自覚がないのだ。
 王女の警護なら、キリル・シェレメーチェフ中尉のほうが適任だ。彼は意外とまめだし、貴族出身だけあって、貴婦人の扱いに長けている。
 なのに何でよりにもよって自分にこんな任務が任されたのだろう。

 ミーチャは、別れ際のサルティコフ大公の言葉を思い出した。

「というわけで、アナスタシアをよろしく頼む」

 大公はひょうひょうと言った。

「この子はわしのところに保護を求めてきたわけなのだが、リトヴィスの兵がくれば、わしはこの子を引き渡さざるをえないだろう。わしの領地で血生臭いことはごめんだし、リトヴィスから懸賞金ももらえることだしな。だがあっさり引き渡したとなったら、わしの名も地に落ちる。だから、とりあえずお前にこの子を託すことにする」

「お言葉ですが、私などではなく、もっと優秀な人に任せたほうがいいでしょうに!」

 自虐的なミーチャの断り文句はあっさりかわされる。

「いや、お前がついていれば安心だ。この子が王女とは誰も思うまいて」

 要するに自分が一番庶民っぽいと暗に言われたも同然だった。

 もっともサルティコフ大公の手駒で、一番身軽だったのが王立軍を抜けたミーチャであることも確かだ。気に食わないが、大公の言い分も理解できた。

 アナスタシア王女の立場は複雑だ。アルトランディアの王女とはいえ、半分はリトヴィス王家の血を引いている。リトヴィスに引き渡せば、リトヴィス政府は王女を利用し、アルトランディアの政治に介入してくるだろう。彼女の父、ニコライ十世時代の傀儡政権どころではない。完全にリトヴィスの直接統治下におかれてしまうのだ。

 だからといって、アナスタシア王女をアルトランディアの愛国主義者の手に渡すことも人道的立場からできなかった。彼らは生粋のアルトランディア人であるニコライ十世を殺害した。そんな人たちのもとでは王女の身の安全は保障できない。

 王都を破壊し、多くの死傷者を出したリトヴィスへの復讐で、王女が一般民衆の手によって殺される可能性もあった。

 ミーチャが王女護衛の任務を引き受けたのは、その行動の根底に「いかなる人間であろうとも命を奪ってはならない」という大公の信念が伺えたからだった。
 サルティコフ大公には命を救ってもらった恩がある。

 大公が王女の護衛に一週間の期限を設けたのにも、それなりの理由があるはずだった。大公は理由を明かさなかったが、その一週間で大公は王女の亡命手続きを取るつもりなのではないかとミーチャは推測した。大公は領地に招聘した芸術関係者を通し、海外の要人に顔がきく。
 となると、大公は王国を完全にリトヴィスに引き渡すつもりなのだろうか。

「軍事国家リトヴィスがほしいのは、鉱物資源が豊富に眠るヴォストク鉱山よ。どうせアルトランディア人はあの鉱山から宝石しか採掘しないのだから、永久不可侵と引き換えにあの山をリトヴィスにくれてやればいい」

 サルティコフ大公はそう公言して憚らなかったが、国の誰もが彼のように思っていたわけではない。

「ヴォストク山はわがアルトランディア国民の精神的支柱である。わが国はヴォストク鉱山から発展したのだ。その鉱山を奪われては、アルトランディアは存在しない。われわれは青き目のアルトランディア人を守らねばならない」

 反リトヴィス派の宰相ルミャンツェフ大公はそう言って、愛国主義者を鼓舞した。
 サルティコフ大公も、ルミャンツェフ大公も、青い目の持ち主だった。

 古代アルトランディアにはヴォストク山にまつわる数多くの神話や伝説が残されている。学校の教科書にも載っているのが「アルトランディアの青き目をした若者と山の神」の神話――アルトランディアの創世記だ。

 古代アルトランディアは川や湖の氾濫に見舞われる凶作地帯だった。それはヴォストク山の神の怒りのせいだといわれ、ある勇気のある若者が山の神の怒りをとくためにヴォストク山にのぼった。若者は美しく、青い目をしていた。若者が青い月が昇る日に毎晩歌と青い花を捧げたところ、神の怒りがとけ、氾濫がおさまった。若者は山の神から授かった青い石を持ち帰り、その後、アルトランディア王国を興したという。

 八世紀に入り、キリスト教を国教に受容しても、アルトランディア王国の各地にその神話にまつわる遺跡や祭りが残された。
 ヴォストク山で産出される希少なブルートパーズは王家の石として珍重され、若者が捧げたという青いオキシペタラムの花は王国の象徴となった。
 青い瞳を持つものは、ヴォストク神に愛された子とされ、美人の代名詞でもあった。
 ミーチャの隣にいる少女はとりわけ美しい青い目をしていた。アルトランディアの血が色濃く出たのだろう。
 そういえば、亡くなったヴィーカも澄んだ青い目をしていた。

 ヴィーカのことを思い出した瞬間、彼女の最期の姿が蘇る。
 ミーチャが王都に旅立つとき、駅のプラットホームでどうしてもっと話をしなかったのだろう。どうして彼女を泣かせるようなことになってしまったのだろう。

 ――ねえ、ミーチャ。ヴィーチャには音楽の才能があるのよ。私が果たせなかった夢を、ヴィーチャなら果たしてくれるかもしれないわ。王都の王立音楽院に入って勉強するの。音楽院の先生なら、ヴィーチャの才能に気づいてくれる。いずれヴィーチャの音楽が国中で演奏されるときが来るのよ。そうしたら、私も演奏家として加えてくれるかしら。

 そのときまで長生きしないといけないと、目を輝かせて話していた彼女は、もうこの世にいない。声を聞くことも、ぬくもりを感じることもできない。

 軍人にあるまじき想いかもしれないが、もう命が失われるところは見たくなかった。あんな思いは二度と――。

「オナカスイタ」

 少女がミーチャの袖をひっぱった。

「わかってますよ」

 言った途端、ミーチャのお腹も鳴り、少女はにっと笑った。

「今日はもう遅いので、潜伏場所候補その一で夜を過ごしましょう。明日の早朝、目的の潜伏場所その二に移動しますよ」

 少女はミーチャの説明を最後まで聞かず、目の前にあったケバブ売りの屋台に向かって全力疾走した。その屋台では肉の塊を串にさし、回転しながら焼いていた。食欲をそそるにおいが辺りに広がる。

「肉ダ! 肉クレ! 私ハ 肉好キ ダ!」

「わあああああ―――――――!」

 ミーチャは大声をあげて、少女のリトヴィス語をかき消した。少女を捕まえた後、ミーチャは財布を開け、ケバブを一本買った。

 非常事態宣言が出たときに、店を開けていた貴重な屋台にミーチャは感謝した。幸い、店員はミーチャと少女の二人連れを不審に思う気配はなかった。
 少女は肉にかぶりつくと、満足そうに微笑んだ。

 その顔を見たミーチャは、一週間という時間が途方もなく長いように思えた。


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