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青の緞帳が下りるまで #24

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第六章「タチアナ・Lに関する覚書」 1

 RL音楽社記者 アンナ・B

 私がタチアナ・Lという歌手を知ったのは、二十世紀初頭、王立音楽院声楽科教授であった叔母リュドミラ・Bの口からである。戦後のアルトランディア国を代表するソプラノ歌手クセニア・クロチキナ、マリア・リプニツカヤの師として名を知られていた叔母だが、晩年、彼女が気にかけていたのは海外に亡命したその二人の愛弟子ではなく、「タチアナ・L」という歌手とその娘のことだった。
「生きていれば、クセニアとマリア以上の歌手になったろうに」と涙もろくなった叔母はことあるごとに彼女の名を呟き、嘆いていた。

 八十歳を超えた叔母から戦前の話を聞きだすのは容易ではなかったが、叔母の証言をもとに、私は王立音楽院の卒業生の名簿を調べ「タチアナ・L」の名を探った。しかしその名はどこにもなかった。かわりに奇跡的に発見されたのは、作曲家ヤローキンが当時の音楽院声楽科学科長に宛てたタチアナの推薦状だった。

「あれほどの才能と美声を持った歌手は二人とおりますまい。彼女に出会えたことが作曲家人生で最大の幸せだと思っております」
(ヤローキンが音楽院声楽科学科長ユーリ・セクリコフに宛てた推薦状より抜粋)

 ヤローキンはニコライ九世、ニコライ十世の二代にわたって仕えた王宮作曲家である。国王ニコライ九世の記念式典で国王賛歌を献呈し、この国の音楽家最高の栄誉である「国王の音楽師範」の称号を得た。
 ヤローキンの作品の中でも傑作の誉れ高いこの国王賛歌は、今日でも合唱付オーケストラで演奏される曲目であるが、国王ニコライ十世の即位式典でこの曲のソプラノ独唱を担当したのがタチアナ・Lだという。
 記念式典に列席した人の多くはその後のクーデター、リトヴィス国との抗戦、第一、第二次世界大戦の戦禍で没したため、祖母の証言の裏付けとなる証拠や資料は少ない。

 だが当時、王室劇場の舞台に立てるのは王立音楽院の卒業生のみとされたため、タチアナ・Lも音楽院の在校生もしくは卒業生とみなすのが必然であろう。
 ところが音楽院の在籍名簿に彼女の名前は残っていなかった。

 次に私はアルトランディア各地の音楽院付属音楽学校を訪ねた。
 芸術と音楽の盛んなアルトランディア王国ではかつて、七歳から十歳の子供を対象に各地で選抜試験が行われ、才能のある子供に対して無償教育を施していた。並外れた音楽の才能のある子は音楽院付属音楽学校に入れられ、そこでエリート音楽教育を受けた後、王立音楽院に入学する。すなわち王立音楽院の入学卒業名簿に名前がない場合でも、音楽院付属音楽学校には在籍記録が残っているはずなのだ。
 私はアルトランディア中の音楽学校をまわったが、タチアナ・Lの名前はなかった。出生記録にもタチアナ・Lという名は見つからなかった。

 たどりついた結論は一つ。彼女の存在記録は政府によって抹消されたのである。通常、記録を抹消される人間は大罪を犯したか、あるいはその存在が国家機密に関わったときだ。

 記者はタチアナ・Lの足跡をたどり、叔母のつてで当時の楽院関係者、音楽家からタチアナ・Lらしき人物の存在証言を得ることに成功した。
 皆が共通して覚えていたのは、タチアナ・Lは背が高く、黒髪黒目の美貌の少女だったということである。当時の音楽院在籍者が日記や書簡で残した証言からも「容姿、才能すべてに恵まれた歌手」ということがわかる。

 戦時中に落命したバイオリニストの証言(書簡より抜粋)
「人生で悔やまれるのは、タチアナの美声を二度と聴けないことだ」

 当時の音楽院助教授の証言(友人に宛てた手紙より)
「職業柄、これまで多くの歌手に出会ってきたが、あれほどの剥き出しの才能を目の当たりにしたことはなかった。自分があのような学生にめぐり合えたら、神に運命を感謝することだろう」

 私は幸いにも、その幻の歌手について、より貴重な証言を得ることができた。

 音楽院卒業生、ソプラノ歌手クセニア・クロチキナの証言
「タチアナのことは覚えています。私の後輩でした。突然授業に来なくなったのです。確か、彼女は音楽院付属音楽学校からではなく、編入試験を受けて入ってきたのではないかと思います。音楽院付属音楽学校の学生たちは子供の頃からエスカレーター式でお互いよく見知っておりますが、当時私のまわりで彼女を知っているものは誰もおりませんでした。彼女はサルティコフ大公の縁の者ではないかとも噂されていましたが、実際のところはわかりません。彼女と親しくしていた者は誰もおりませんでした」

 クセニアの証言通り、サルティコフ大公の令嬢であれば、優秀な音楽家庭教師をつけることは可能だっただろう。貴族の中に優秀な音楽家が多いのは、潤沢な資金があり、かつ王室主催の音楽会に参加できるからだ。

 私は早速サルティコフ大公家の系譜をたどったが、はたしてそこにもタチアナ・Lらしい出生記録は残っていなかった。タチアナ・Lの公式記録は完全に失われた。
 他説では、タチアナ・Lは作曲家ヤローキンの娘ではないかとも噂されていたようである。彼がそのコネクションを使い、王立音楽院に娘を入れるのはたやすい。娘の才能を認めさせるために試験を受けさせたというものだ。当時ヤローキンは三十代。タチアナ・Lは十代。初婚の平均年齢が十七歳の当時では齟齬はないが、やはりこれは強引すぎる説のようにも思えた。

 叔母は自伝を出版する際に、タチアナ・Lのことを書こうとしたが、検閲をおそれ、世に出すことができなかったという。
 その叔母が二十年前に書いた覚書を紹介したい。

 音楽院教授をしていたリュドミラ・Bの証言(自伝用原稿の下書きより抜粋)

 彼女が教室に入ってきたとき、誰もがどこのダンサーが受験会場を間違えて入ってきたものかと思いました。黒い髪はバレリーナのようにまとめられ、小さく白い顔にアーモンドのような形の大きな目が二つ。口紅ひとつさしていませんでしたが、化粧映えする綺麗な顔立ちをしていました。

 タチアナは当時流行していた襟ぐりの大きなタイトなロングワンピースを着ていました。色は黒です。私の覚えている限り、舞台以外の場所で彼女が黒以外の色を身につけていたことはありませんでした。首も手足もひょろ長く、顔色も悪かったので健康状態が懸念されました。
 首にはショールを巻いていました。王都の夏場は雨が少なく乾燥しやすいので喉を保護していたのだと思います。今にして思えば当時からプロ意識を持った子でした。

 彼女は私が見てきたあらゆる受験生と違っていました。実技試験の順番を廊下で待っている間、一冊の楽譜も教本も見ようとはせず、場所をかえて発声練習をすることもなく、ほかの受験生と他愛のない世間話をして緊張をほぐすこともせず、ひっそりと座っていたといいます。

「タチアナ・Lですね」

 声楽科の学科長が名前を訊いたときも、彼女は声を出さずに頷くだけでした。
 それを学科長は彼女が緊張していると思い、
「あなたは私たちにご自分の声を聞かせるためにこちらにいらっしゃったのですよね?」とユーモアを交えて言いました。そこには「あなたは声楽家を受験するのですよね」という意味も含まれていました。それでもタチアナという少女は当然、といった面持ちで首を縦に振るだけでした。
 私はそのとき、彼女の履歴書を再確認しました。師事していた声楽教師名の欄は白紙。筆記試験は作曲家ヤローキンの推薦ということで、免除されていました。

「ヤローキンって、あのヤローキンですよね?」

 私の手元の紙をのぞき見た、隣席のヴィシュニコワ先生が耳打ちしたのを覚えています。
 ヤローキンは人付き合いが悪く、偏屈で有名な作曲家でした。私より二、三歳年下で、音楽院在籍時期が重なるのですが、学部が違うため、数えるほどしか会ったことはありません。王立音楽院の作曲科を首席で卒業したものの、誰も演奏できない難曲ばかり作るので業界では有名でした。音楽家同士の催しものにも出ず、たまに劇場に現れても、プログラムに曲を書いていて、挨拶しようとしてもろくにこちらの顔も見ないのです。

 彼はいつも古びた毛糸の帽子をかぶり、もじゃもじゃの髭をはやしていました。それが彼のトレードマークで、たまに彼を見かけた学生がノートの切れ端に漫画で描いていました。
 それでも彼が天才であり、音楽院の名誉ある卒業生であることにはかわりはありませんでした。

 ニコライ九世の記念式典で演奏された数多くの献呈曲の中で、彼の作品だけが光を放っていました。初演にあたり、王室劇場のオーケストラと何度も口論を繰り返し、初版より難易度を下げてアレンジされたと聞きますが、一度聴いたら忘れられないメロディーライン、計算され、終楽章で最高潮に達する構成。
 感激のあまり立ち上がった国王は、そのまま彼に「音楽師範」の称号を与えてしまったほどです。宮廷音楽家となり、王の曲を作る栄誉をヤローキンはいとも簡単に手に入れてしまったのです。

 ヤローキン自身、そのような栄誉などどうでもよかったに違いないのですが、永久称号は辞退することもできません。聞き知ったところでは王宮で好きなだけ作曲してもいいという環境は歓迎したようで、そのまま王宮に移り住んだそうです。
「たった一回のチャンスで成功を掴んだ」ヤローキンに対する国の音楽家からの嫉妬は激しいものでした。音楽院内でもヤローキンに対してあることないことが捏造され、悪い噂が振りまかれました。

 彼が王宮に行ったのはそういう面でも最良の選択をしたのかもしれません。
 彼の曲に感激し、弟子入りを望んだものも多かったと聞きますが、彼は一人として弟子を取ろうとしませんでした。人間と関わることもなく、紙に向かって、頭に降りてくる音を書き留めていたそうです。
 タチアナ・Lの推薦状には、その、あらゆる人間に無関心だったヤローキンの名前が書かれていました。

 その後の質問にもタチアナは無言で通しました。
 いらついているのが傍目からもよくわかりました。不機嫌さを隠さない子でした。
 その態度は尊大でもありました。有名なレストランに入ったのに料理を待たされている富豪客のように。

 受験生の緊張をほぐそうとした学科長の努力は徒労に終わりました。音楽院の編入試験は毎年行われますが、合格者が出たことはありません。そうやすやすと合格させない音楽院のプライドもありました。

 タチアナにも誰もが期待していませんでした。国王の音楽師範ヤローキンの推薦状はあったものの、それは偽造ではないかとも思われていました。実際、名のある音楽家の推薦状を偽造して編入試験を受けにくる学生のケースもあったからです。それに、音楽院内でヤローキンに好意を持つ教授はいませんでした。逆にヤローキン推薦の子を落として、彼の名前に恥をかかせようと思う講師のほうが多かったでしょう。

 声楽科の実技試験は自由曲と課題曲の二つ。課題曲はあらかじめ提出された十曲のうちから三曲を歌います。自由曲は特に規定はありませんでしたが、課題曲と違う時代、作曲家のものを選ぶことが好ましいとされていました。

 課題曲の中には古今東西の偉大な作曲家にまじり、審査員の先生の作品も入っていました。受験生は媚を売るように、一曲はそれを選ぶものですが、タチアナは一曲も選びませんでした。作曲家本人を前に歌うのは恐れ多いとばかりに辞退する学生もいますが、彼女の場合は「それは自分が歌うに値しない」とふるい落としたように見えました。

 曲名も言わない彼女にいらいらしたように、審査員の先生の一人が伴奏の先生に合図しました。手っ取り早いところ歌わせて、この不愉快な場を終わらせてしまおうと。

 忘れもしません。そのとき彼女が歌ったのは、モーツァルトの「ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いたとき」(Als Luise die Briefe ihres ungetreuen Liebhabers verbrannte)でした。

 私自身、ドイツ語を母国語としているのですが、驚くべきことにタチアナのドイツ語の発音は完璧でした。あとで知ったところによると、彼女はほとんどドイツ語が話せなかったそうです。ドイツ人歌手が歌っているのを聞き、それを耳で覚えたのだとか。

 あまりの美声に伴奏の先生が何度も私たちの方に視線を送りました。
 天性の美声を持つ学生の歌は、多少の欠点があったとしてもそれなりに聞けてしまうため、技術面が疎かになっていることもあるのですが、彼女の場合、天性と――それに裏打ちされた努力が透けて見えました。

 十五年間、歌手を指導してきた身として、これまでも優れた素材を見てきました。数え切れないほどコンサートに足を運びました。
 その中でも彼女の才能は異次元でした。彼女の歌は、私のこれまでの価値観や認識を一瞬で破壊しました。私がこれまで最良と思っていたものは、二流に過ぎなかったのです。

 解釈はそれぞれの好みがあるかもしれません。しかし、タチアナが歌ったそれは、当時の私が求める最上の音楽だったのです。

 ヴィシュニコワ先生は「凄い子が入ってきましたね」と興奮を隠せないでいましたが、私は空恐ろしい気がしました。声楽科教授陣の誰が彼女の担当になるのだろう――と。できれば自分は辞退したいと思っていました。

 ある種、取り扱いの難しい爆弾のような子でした。彼女はこの年にして歌手として完成されていました。私は彼女に何も教えるものがない。他の先生にしても同様だったと思います。レベルが高すぎる。下手に教えたら、それが今の彼女を壊してしまう恐れがありました。そうして、自分すら爆発に巻き込まれて自滅してしまうのではないかと。

 タチアナはそれから課題曲を二つ、続けて歌いました。皆そこが試験会場であることを忘れました。王室劇場のオーディションを受けにきた歌手を見つめているような、豪奢な王室劇場の舞台に立った歌手の歌を聴いているような、そんな錯覚にとらわれました。

 講評をすることも忘れ、ただ息を呑んで見守りました。
 歌い終わったあとも、タチアナはなぜか憮然としていました。歌っているときはあれほど生き生きとしているのに、不思議な子でした。そのルックスから舞台に立てば、たちまち人気者になるでしょう。ある種のカリスマさえ持っていました。
「今の気持ちはどうですか?」という学科長の問いにタチアナは「イタリア語の方が声楽向きで歌いやすい」とだけ答えました。
 学科長が「では、次にイタリア歌曲を歌いますか?」と聞いたとき、彼女はすぐさま「トスカを」と答えました。
 プッチーニの歌曲「トスカ」より「歌に生き、愛に生き」でした。

 伴奏譜が提出されていなかったのですが、彼女はアカペラで歌うと言いました。そこにいた誰もが受験にふさわしくない曲だと思いました。背伸びして難しいアリアを選ぶ学生はいるものですが、たいていは自滅するのです。音楽院の入学試験はいかに正しく楽譜を理解し、歌うというものですから。
 ドイツ語を完璧に歌い上げたからこそ、彼女が果たしてイタリア語で歌えるのかという懸念もありました。発声法がまるで別物だからです。
 トスカのテーマも十七歳の少女が歌いこなせるものではありません。捕えられた恋人の解放と引き換えに、警視総監から関係を求められたトスカが、絶望の中で神に歌うアリア。しかし私は彼女なら歌えるのではないかと、妙な期待感をもっていました。

 そしてタチアナは難曲のイタリア歌曲を完璧なまでに歌い上げたのです。トスカの二幕が思い出されるほどにドラマティックな歌唱でした。
 その歌がその後の彼女の人生を象徴するものであったことに、十七歳の彼女自身、気づいていなかったでしょう。

 彼女はアルトランディアの至宝です。彼女のような人間がアルトランディアに生まれたことを、私は心から神に感謝しました。
 教師陣は色めき立ちました。
 沈黙を破るかのように、審査員の先生が身を乗り出し、タチアナに一言、意見したのです。この先生はピアノ科の先生で、声楽は専門ではありません。どこの世界にでもいるものです。自分がいかに優れているかを見せるために、完璧なものに余計なケチをつける輩が。

「タチアナ、素晴らしい演奏でした。ええ、学生の歌とは思えぬほどに。ただ、これは――私見なのですが、あなたは少しビブラートをかけすぎではありませんか?」

 何をバカなことを言っているのかと思いましたね。ビブラートをかけられない学生の歌を聴きすぎて、彼の耳がくるったのかと。彼女の完璧な歌に、文句のつけようなどなかったのです。
 タチアナは大きな二つの黒い目をまっすぐその教師に向け、ぴしゃりと言いました。

「そう聞こえたのなら、あなたの耳が悪いのです」

 胸がすくほどに気持ちのいい言い方でした。ブラボーを送りたいような気になりました。
 もっともそう思ったのはおそらく私と学科長だけで、恥をかかされた先生は憤っていましたし、彼女の発言を生意気に思った先生方もいたでしょう。
 学生として教師に対する敬意の欠片も見せないタチアナでしたが、彼女を落とすわけにはいきませんでした。彼女はおそらく音楽院に最大の栄誉をもたらす卒業生になると、誰もが確信していました。

 彼女は人間としても魅力的でした。その矜持の高さこそ、オペラ歌手にふさわしいとも思いました。

 タチアナは王立音楽院の声楽科史上、唯一にして最後の編入生となったのです。

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #25」(第六章「タチアナ・Lに関する覚書」 2)

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