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青の緞帳が下りるまで #09

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第一章 ヴィーチャとAの出会い 3


 ヴィターリーは耳を疑った。

「ヤローキンって……あの作曲家のヤローキン先生か? 国王の音楽師範の!」

「あなた、ヤローキンを知っているの?」

 このとき初めて、少女はまっすぐヴィターリーの目を見た。吸い込まれそうな美しい青い双眸だった。

「私はヴィターリー。皆にはヴィーチャと呼ばれている。作曲家だ。ヤローキン先生に会うために王都に行く途中だった。その……自分が書いた作品を見てもらいたくて……」

「あなた、ヤローキンの友達?」

「いや、その……まだ会ったことはなくて、文通をさせてもらってたというか……」

 答えながら、この少女の正体をヴィターリーは考えていた。
 ヤローキンの娘だろうか。いや、ヤローキンは独身だったはずだ。ヤローキンに弟子がいるという話も聞いたことがない。親戚の子か、それとも――。

「じゃあ、ここで一緒に待つ?」

 少女は思いがけない提案をしてきた。

「待つ? ……ここで?」

 少女はうなずいた。

「ヤローキンは私にいつも言っていた。何かあったときは歌うがいい。歌はお前の身を助けてくれるって。だから歌わないと……。歌わないと、ヤローキンがこの街に来ても、私を見つけることはできないから」

「ヤローキン先生は劇場で亡くなったんじゃないのか! 生きているのか?」

 ヴィターリーが説明するまでもなく、少女は劇場火災のことを知っていた。

「ヤローキンは劇場には行っていないと思う」と、少女は断定した。
「ヤローキンは音楽祭や式典でリハーサルまで劇場にこもることはあったけれど、本番は決まって劇場にいなかった。人前に出るのが嫌いな人だったから。確かではないけれど……」

「じゃあ、彼は生きているのか?」

「わからない。でも、私は生きていると信じている。彼はそう簡単に死ぬような人じゃない。彼の頭の中はいつも新しい曲のことでいっぱいだった。食事もとらず、睡眠をけずって書き続けていた。新年の音楽祭が終わったらユヴェリルブルグに行くと言っていた。もし彼が生きているなら――、絶対にこの街に来ると思う」

 暗闇に一筋の光が差した思いだった。ヴィターリーは十字を画き、神に感謝した。
 ヤローキンには会えなかったが、ヤローキンを知る少女には会えた。
 これはきっと運命に違いない。

 そういえば、まだ少女の名前を聞いていなかった。
 名を訊ねると、少女は困った顔をした。
 ヴィターリーは少女の警戒心を解くように笑った。

「教えたくないなら偽名でもいいけれど。名前がないと呼ぶときに不便じゃないか?」

「そういうわけじゃない。ただ名前がたくさんあって……。鏡の館にいたときの公式な名前はルドナスケラだけど、ヤローキンやアナイ・タートにはアーサスと呼ばれていた」

 ルドナスケラ? アーサス? アナイ・タートに劣らず奇妙な名前だった。
 いくつかの名前を聞かされたが、どれも発音しにくかった。

「面倒だったらサーシャでいいよ。ヤローキンに会う前はずっとそうだった」

「サーシャ……ってことは、アレクサンドラか。いい名前だね。私の村でサーシャといえば、美人が多かった」

 軽口を叩いたが、少女は笑わなかった。和ませたいのだが、どうもうまくいかない。
 しかし、なぜこの子はヤローキンを知っているのだろう。
 ヤローキンはこの子の美声をみこんでスカウトしたのだろうか。

「あなた、少しヤローキンに似てる」

 サーシャはぽつりと言った。

「似てる? どこが?」

「服装に無頓着なところ」

 そう言うと、サーシャは少し笑った。儚い笑い方がヴィーカによく似ていた。

 空から白いものが降ってくる。

 まずは暖のとれる場所に行きたかった。駅の待合室に座る場所はまだあるだろうか。
 ヴィターリーが思案している間にサーシャはすたすたと歩き出していた。
 白い雪の上に、小さな足跡が刻まれる。

「サーシャ、どこに行くんだ!」

「劇場」

 サーシャは言った。

 ――劇場?

 ヴィターリーは耳を疑った。思いもよらない行き先だった。
 サーシャが歩調を緩めないので、そのあとを着いていくことにした。

「サーシャ、待ってくれ」

 二人の足跡が白い雪の上に残される。

 このときのヴィターリーは以後、四十年にわたり、故郷に戻れない自らの運命など知るよしもなかった。ただ、宝石の街で、原石を見つけたと思った。

 自分の曲を歌ってくれるであろう、最高の歌手を――。

 ***

 楽屋の椅子に腰かけたマエストロはイーラに言った。

「楽屋に残された落書きのイニシャル。彼女がAです。ルドナスケラ、アーサス、アレクサンドラ、その愛称のサーシャ。彼女は様々な名を持っていたのですが、実際のところ本名はわかりません。アナスタシア王女だったのかどうかもわかりません。王女だったのかもしれない。そう思わせるシーンもありました。ですが王女だとしたら、なぜ二番の、王女賛歌の歌詞を、自分で歌ったのだろうかと思いますね。それも毛嫌いしていたという賛歌を。ただ、ごく一部の人しか知らない国王賛歌の二番を知っているのは、やはり、ヤローキンの身近にいた人物か、王宮にいた人物であろうとは思っていました。当時、私はAは王女ではないと思っていました。なぜかって? 私はその後、アナスタシア王女と名乗る少女と会ったからです。その女性を連れてきた人こそ、ミーチャでした」

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #10」(展示品二 オゼルキ村の写真)


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