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青の緞帳が下りるまで #11

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第二章 大公とミーチャ 1


  あれは、ドミートリー・アファナーシエフことミーチャが十三歳の誕生日を迎えてすぐのことだった。
 オゼルキ村郊外の岩山の狭間にある小さな駅。
 士官候補生の紺の制服に身を包んだミーチャは見送りにきた村の人々に囲まれ、順番に餞別の言葉を受けた。

「どうか立派な軍人になってこの村を守っておくれ」

 村長が差し出した手をミーチャはかたく握り返した。
 国境に近いこの村は常に隣国リトヴィスの脅威に晒され、平穏なときがなかった。
 ミーチャが物心つく前から、アルトランディア王国とリトヴィスは、両国にまたがるヴォストク鉱山の利権を巡り、常に抗争を繰り返していた。

 地図上に引かれた国境線を最初に無視したのはリトヴィスだった。鉱山開発を続けるリトヴィス人は次第にアルトランディア側に侵入してくるようになり、それに反発し、銃撃に倒れたアルトランディアの鉱山労働者の数は三桁にのぼる。
 そういう状況になってもリトヴィスに対して強硬姿勢を見せないアルトランディア国王に国境の人間たちは苛立っていた。国王に嘆願書を送っても返事はなしのつぶて。直訴するにも北の王都は遠い。貧しい村には王都まで村人を派遣する予算もない。
 半ばあきらめていたところにオゼルキ村のミーチャが王立軍の士官候補生試験に合格したとの報が舞い込んできた。
 この快挙にオゼルキ村だけでなく近隣の村すべてがわいた。
 普段はなかなか会えない村長も、ミーチャの見送りに顔を出した。

「国王陛下にお目にかかれることがあれば、どうか村の現状をお伝えしておくれ。すぐそこまでリトヴィス軍が迫ってきている。毎日銃声やリトヴィス語が聞こえて夜も眠れない。陛下に、くれぐれもくれぐれも、この村をどうか見放さないでくださいと」

「わかっていますよ、村長」

 一躍村の期待を背負い、英雄となったミーチャは自分を誇らしく思っていた。
 周囲を見渡すと、寝たきりの年寄りをのぞいてほとんどすべての村人が集まってきていた。しかし、王都行きの列車がホームに入っても、ミーチャが一番会いたい少女は姿を見せなかった。
 諦めて列車に乗り込もうとしたとき、その少女は弟に手を引かれ、ホームに走ってきた。

「村を出ていくと聞いて……」

 黒髪の少女は血相を変え、まっすぐミーチャのもとに駆け寄った。
 その少女はヴィーカと言った。紫外線の多い鉱山地帯には珍しく、透き通るような白い肌と青い瞳をしていた。走ったせいで息をきらし、胸元を押さえた。
 息を整えると、ヴィーカは一息に言った。

「軍人になるなんてやめて。どうか私たちのそばにいて!」

 その言葉にミーチャは驚いた。てっきり輝かしい前途を祝福されると思っていたのに――。

「これ、ヴィーカ、ミーチャは私たちのために軍人になってくれるんだよ。私たちを守ってくれるんじゃないか」

 村人たちが諌めたが、ヴィーカは首を振った。

「私は……ミーチャに人殺しになってほしくない……」

 大きな青い目に浮かんだ涙は盛り上がり、こぼれ落ちる。
 いつも陽だまりのような優しい笑顔を浮かべていたヴィーカの涙を見たのは、そのときが初めてだった。幼馴染という言葉で片付けられないほど、多くの時間を共有した女の子。

 ミーチャは彼女のピアノを聴くのが好きだった。
 彼女の言葉に答える暇はなかった。
 出発時刻になり、ミーチャの乗り込んだ列車はゆっくりと動きはじめた。
 プラットホームで、ヴィーカの隣に立つ弟のヴィーチャが小さな手を一生懸命振っているのが見えた。ヴィーカは両手で顔を覆っていた。
 お互いの姿が小さくなっても、決して最後まで顔を上げることはなかった。

 それがヴィーカとの永遠の別れだった。

 ミーチャにはヴィーカが泣いていた理由が理解できなかった。
 ヴィーカを守るために村を出る。出世して、偉くなって立派な軍服を着て、ヴィーカを迎えにいく。リトヴィスから村を守った英雄になり、平和な村で幸せに暮らす。その思いを胸に、ミーチャは意気揚々と旅立った。
 それがどうしてあんなことになってしまったのだろう。別れの際のヴィーカの涙は、将来に起こることを予期したものだったのだろうか。

 次の瞬間、目の前は火の海だった。

 ミーチャはヴィーカを必死になって捜し回った。

「ヴィーカ! どこにいる! ヴィーカ!」

 その名を叫んでも、答える声はなかった。
 成長したヴィーカは全壊した木造小屋の外で、無残な姿で息絶えていた。
 オゼルキ村の東部は焦土と化し、半数以上の村人たちが命を落とした。すべてはリトヴィス軍の攻撃のよるものだった。
 軍法違反を犯してまで村に戻ってきたミーチャを村人たちは慰めてくれた。

「王都にいたお前にどうにかできたことじゃないんだから」

「仕官候補生のお前一人が村にやって来ても、リトヴィス軍を相手にすることはできなかっただろう?」

 そうではない。リトヴィス軍侵攻の当日、ミーチャは王都にいなかった。
 東部国境砦の警備を命じられ、オゼルキ村の目と鼻の先にいた。士官候補生の身でありながらも、ミーチャが異例の抜擢を受けたのは、東部出身でその地に明るかったからだ。
 王都から派遣された精鋭軍に加えられたミーチャは、着任当初、興奮を抑え切れなかった。
 こんなにも早く故郷を守る機会が訪れるとは思わなかった。軍服姿を村の皆に見せたい気分だった。誰か知り合いが通りかからないかと、砦を守りつつも、内心そわそわしていた。

 実戦経験が浅いことから、ミーチャは砦の通信部隊にまわされた。それがリトヴィス軍侵攻の前夜のこと。上官から「リトヴィス軍のスパイからわが軍を装った通信が入るかもしれない。いかなる通信があろうとも、応答してはならない」との厳命を受け、守った。
 それがオゼルキ村の人々を見殺しにする結果になるとも知らず。

 深夜、暗闇の中、はるか彼方に上がった火の手と爆音。ミーチャは思わず砦を飛び出していた。まわりの制止の声も聞こえなかった。それはオゼルキ村の方向だった。なぜ故郷が燃えているのだろう。そう思うと、駆け出さずにはいられなかった。

 すべては手遅れだった。

 焼けた村、人々の亡骸を見て、ミーチャはやっと理解した。
 砦に送られてきたのはオゼルキ村からの救援信号だったのだ。それを上官からの命令という理由で、相手にしなかった。上官の意図も、その通信の真偽を考えることすらしなかった。

 たった一夜で大切なものを喪ってしまった。
 自分が守るべき大切な人たちを、自分が殺したようなものだった。

 どう願っても、残酷な事実は変わらない。半壊したヴィーカのピアノはもとに戻らないし、亡くなったヴィーカは生き返らない。
 村人たちの葬儀をすませ、軍に戻ったミーチャを待ち受けていたのは、王都での軍法会議だった。

「なぜ私の村(オゼルキ)を見殺しにしたのですか!」

 ミーチャの叫びは無視された。

 軍人である以上、上官の命令は絶対である。規律を犯したミーチャにはしかるべき厳刑が処されることとなった。
 誰とも面会をゆるされず、鉄格子の奥で判決を待つミーチャに宣告されたのは「処刑」。

「あの程度のことで処刑なのですか? 私は何も悪いことをしていない!」

「あの程度のこと? お前は愚かにも作戦を妨害するところだったのだぞ」

 かつての上官は冷たく言い放った。
 作戦とはリトヴィスがオゼルキ村に侵攻するのを妨害せず、オゼルキ村に多数の死者を出すことだった。

「お前が邪魔をして、万が一、オゼルキ村が助かったら我々が東部まで出向いた意味がなくなってしまう。これで親リトヴィス派の王都の連中も目が覚めただろう。オゼルキ村の人間の死は無駄ではない。反リトヴィスの機運を高め、国内をまとめるのに役立ってくれれたのだ」

 自分の耳が信じられなかった。

 腐っている……。

 ミーチャへの厳しい処分は、同じ士官候補生に対する見せしめの意味もあった。
 王都のエリート揃いの士官候補生の試験に田舎出身の自分が合格できた理由もうっすらとわかった。軍は最初から自分を捨て駒にするつもりだったのだ。

 こんな腐った軍人たちのために死ぬなんて真っ平だった。

 処刑前夜、ミーチャのもとに一通の手紙が届いた。ミーチャの運命を憐れんだ誰かがそっと忍ばせてくれたのだろう。それは、ヴィーカの弟、ヴィーチャからのものだった。

 王立音楽院付属音楽学校の試験を受けるべく、村を離れていたヴィーチャは幸い難を逃れた。ヴィーカが手ほどきをしたヴィーチャのピアノとバイオリンの腕前はなかなかのもので、村では神童と呼ばれていた。よほどのことがない限り、試験に合格できると思われていた。ところが、手紙で報告されたのは「不合格」だった。

「提出された書類に不備があったため、不合格とみなします」

 同封された書類の写しを見て、ミーチャは腸が煮えくりかえる思いがした。
 そんなはずはない。几帳面なヴィーカが必要書類を見落とすことなどありえない。足りないものは何一つなかったはずだ。

 ヴィーチャは拙い筆跡でつづっていた。

「足りないのは王立音楽院を卒業した指導者の推薦状でした。ヴィーカは村の音楽の先生にお願いしましたが、音楽院出ではない先生の推薦状では不十分だとみなされたのです」

 そんなことがあっていいものか。
 一読後、ミーチャはやるせない思いを、目の前の壁にぶつけた。
 実力ではなく、提出物の不備で合否が決まるなど、そんな理不尽なことがゆるされていいはずがない。オゼルキ村に音楽院卒業生などいない。その近隣の村にもだ。音楽院卒業生の推薦状など、大都市に出るしかない。そのお金がオゼルキ村の人間にあるはずがない。

 紙切れ一枚足りないだけで不合格になるなら、そんな音楽院など意味はない。
 怒りが喉の奥まで押し寄せた。
 あんなにも音楽が好きな子なのに。

 ミーチャはヴィーチャの顔を浮かべる。勉強も運動も苦手だが、音楽は小さいときから好きな子だった。ヴィーカの影響でヤローキンの音楽を気に入り、ヤローキンのようになりたいと作曲まではじめた。そんな彼に、音楽の道は与えられないというのか。

「音楽を続けたいです」と締めくくられた手紙に答える術をミーチャは持たなかった。

 彼はわらをもすがる思いで王都のミーチャに手紙を送ってきたのだろう。だが、ミーチャは明日には処刑される身。どうにかしてやりたいが、自分はあまりにも無力だ。
 ミーチャは頭を抱えた。
 ヴィーチャの家族――最愛の姉を殺したのは自分だ。

 自分はミーチャのために何ができるだろう――。

 ***

「ドミートリー・アファナーシエフ少佐、お休みのところ、申し訳ございません。大公からの使者が下に来ております。大至急、ユヴェリルブルグの屋敷にお越しくださるようにとのことです」

 その言葉を聞き、ミーチャはホテルの簡易ベッドから跳ね起きた。
 頭の中にはまだぼんやりと幼いヴィーチャとヴィーカの顔が残っている。
 珍しいこともあるものだ。十年以上前のことを夢に見るなんて。

 目の前にはキリル・シェレメーチェフ中尉が立っていた。生粋の貴族にも関わらず、平民出のミーチャを上司に持っても不平を言わない数少ない軍人である。

「私はもう少佐でも何でもない。ドミートリー・アファナーシエフは王宮警備で死んだことになっているのだろうから」

 とはいえ、毎日着ていた軍服を着なくてもいいとなると、それはそれで気分が落ち着かなかった。ミーチャはキリルが適当に見繕って用意したという庶民の服装というものを身につけ、玄関先で黒のロングコートをはおった。

 すらりとした体躯のミーチャがそれを着ると、舞台俳優のようだとキリルは褒めた。
 目立つ装いは困るのだが、もはや部下ではないキリルに文句を言うことはできなかった。

「このユヴェリルブルグは王都より遥かに寒い地ですからね。毛皮の帽子もお忘れなく」

 そう言って、キリルはかいがいしくミーチャの世話を焼いた。
 二人はクーデターの日、とある任務で王立軍を脱走し、ユヴェリルブルグまで到達した。
 当然軍人の地位は剥奪されるだろうが、伯爵家の御曹司のキリルは領地に戻っても何不自由ない生活が送れるはずだった。
 任務が終了した時点で故郷に帰るか、国外に出るかと思っていたのだが、なぜかキリルはまだミーチャの傍をうろうろしていた。
 上官との別れを惜しむような性格でもないだろうに。まさか例の旅券をヴィーチャに手配したことを気づかれでもしたのだろうか。

 部屋の鍵を返すついでに、ミーチャはフロントの人間に小声で訊いた。

「例の旅券を持った者はここに来ていないか?」

「いえ、おりません。昨夜のベルリン行きを最後にサルティコフ鉄道は業務停止しているようです。この建物も明日には閉鎖されます」

「そうか」

 ミーチャは胸を撫で下ろした。

 ヴィーチャに送った旅券には特殊な青シールが貼られている。それはアルトランディア王国の最重要人物であるという印。あの旅券を携帯している限り、アルトランディア国内では何不自由なく旅行できる。何らかのトラブルに巻き込まれた場合や国境を超えられなかった場合も、その旅券を提示すれば、自働的にこのユヴェリルブルグの「特別施設《ホテル》」に送られるはずだった。

 ここに来た形跡がないということは、ヴィーチャは無事に国外に出られたに違いない。
 彼にドイツ留学をすすめたのは、この日のためだ。彼が無事に目的地にたどり着けたのなら、もう思い残すことはない。軍法違反はこれで二度目だが、惜しむような命でもない。
 少しでも償いができたのなら、ヴィーカに会いにいける。
 ミーチャは胸の前で十字を画く。

「少佐、何をぐずぐずなさっているんですか? 大公がお待ちかねですよ」

 キリルの声が背後で響く。
 玄関先で横付けされた馬車にミーチャは乗り込んだ。


→(次回)「青の緞帳が下りるまで #12」(第二章 大公とミーチャ  2)

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