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青の緞帳が下りるまで #22

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第五章 ヴィーカの記憶 2

 ***

 一九一四年一月十二日。潜伏生活七日目。

「ユヴェリルブルグから臨時列車が出ると発表されました」

 作曲をしながら、ラジオのニュースを聞いていた、ヴィターリーはぴくりと耳を動かす。

「ミーチャ、聞いたか?」

 ふりむいたときに部屋には誰もいなかった。

「なんでこういうときに限って、誰もいないんだ」

 サーシャと王女はいない、ミーチャもだ。
 そういえば、ミーチャと王女はサルティコフ大公邸に行くと話していた。サーシャはヤローキンを探しに、駅前広場にでも行ったのだろうか。
 ミーチャから劇場の外に出るなと言われたけれど、臨時列車が出るなら外出するしかないだろう。今なら切符を購入できるかもしれない。
 追っ手から逃げている王女とミーチャは潜伏する必要があるが、自分にはその理由がない。何も悪いことはしていない。劇場を勝手に寝床にしている以外は――。

 そう思ったヴィターリーの行動ははやかった。
 作曲に時間をあてるため、面倒事はなるべくはやくすませたかったし、ミーチャの手を借りずに、自分だけでもやっていけるか試してみたかった。
 中央駅では切符を求め、長蛇の列ができていた。

 ユヴェリルブルグに閉じ込められた欧州各国の人間が自国の大使館、領事館を通し、リトヴィス、アルトランディア政府に抗議したのである。
 切符購入には、旅行許可証が必要であったため、ヴィターリーは市庁舎で再発行の申請をした。外国からの正式な招待状があれば、出国査証を取ることができる。ヴィターリーには幸い、欧州の音楽祭の招待状があった。

 ただ、音楽祭に行くという理由だけでは、少し弱いと感じたヴィターリーは更に理由を付け加えた。「音楽祭での演奏のため」。
 サーシャの分も申請しようとしたが、旅券がないと不可能とのことだった。
 もちろん、旅券消失者の例は多かったため、考慮され、ひとまず「保留」で申請手続きだけはしてもらえることになった。問題は、連絡先を記入しなければならないことだった。

 サーシャとのドイツ行きが見えてきたヴィターリーは嬉しさのあまり、うっかり現住所を書いてしまった。
「旧大劇場通り 十五番地」と。

 それが巧妙に仕組まれた罠であることも知らなかった。

 ヴィターリーが申請手続きをしている頃、外では「サルティコフ大公失踪」のニュースが飛び交っていた。
 寝耳に水の大事件で、国民は驚いた。
 リトヴィスの兵に暗殺されたのだとか、いや、極秘で王都に向かったのだとか、噂は噂を呼んだ。
 アルトランディアの王位継承者が消えた。それ以上にユヴェリルブルグ領主の不在は街の中の人を心細くさせた。
 この件を誰よりも早く知ったのは、約束の一週間が終わり、偽王女を連れてサルティコフ大公のもとに行ったミーチャだった。

「これは一体……」

 大公の屋敷はもぬけの殻で、人っ子一人いなかった。
 偽王女を守り通し、旅行許可証と列車の切符がもらえるとばかり思っていたミーチャは完全にあてが外れた。
 あの大公があっさりリトヴィスの手に落ちるとは思えなかった。自ら死を選ぶ人ではない。最後の最後までしぶとく生き、周りに迷惑をかけながらも人生を最大に謳歌する人だ。
 何があったのか予想もつかなかった。不安な顔をしたのはヴィーカも同じだった。

「信じられない。なぜ王女を見捨てるようなことをされるのか。……何か聞いてますか?」

「いいえ、何も」

 王女も呆然としていた。

 その帰りだった。
 任務期間が終わり、どこか油断が出たのだろう。
 駅前広場周辺に出たときに、ミーチャとヴィーカは、アナスタシア王女捜索中の王立軍の兵に捕まった。幸い、その顔ぶれに元王立軍少佐のミーチャを知るものはいなかった。

 さすがの王女も、リトヴィス語でわめきちらすことはしなかった。
 アナスタシア王女の演技をする約束の一週間は終わった。
 終わったにもかかわらず、大公とは会えなかった。
 そのときになって、ヴィーカはアナスタシア王女であることの危険性を思い知った。

 多くの兵を前に、連行されるのではないかと身をかたくしたが、二人はあっけないほど簡単に解放された。これまでと明らかに様子が違った。

「助かりましたね」

 ミーチャはヴィーカの手をひき、劇場へと急ぐ。

「ええ」

 歩きながらも、ミーチャはずっと考えていた。
 どういうことなのだろう。アナスタシア王女が連行されなかった。
 彼らが探しているのは、アナスタシア王女とは違う人間なのか。それとも――。
 大公に報告しようにもその人はいない。あの大公が黙っていなくなるとは考えにくかった。もう一度、屋敷に戻るべきだろうか。あの大公なら、必ず何らかの形で、置き手紙を残したはずだ。なぜ王女を見捨てるようなことをしたのだろうか。

 街中の人たちは皆、聖歌を口ずさんでいた。

「皆、歌っているのね」

 ヴィーカはなにげなく口にした。

 この世に幸いあれ……。

 まわりの人たちの、祈りたいような気持ちは理解できた。

「ああ、ヤローキン聖歌ですね」

「サーシャも皆が寝静まった頃、よく練習しているのよ。声を出せないから鼻歌だけど」

「迷惑じゃないですか?」

「どうして? あの旋律は好きよ」

「どうしてって……」

 言いかけたヴィーカは狼狽する。今のは完全に失態だった。
 そうだ。ヤローキンの聖歌は、もとは国王賛歌であり、二番が王女賛歌だ。
 あの曲はアナスタシア王女が嫌っていたという逸話がある。王女を演じるなら完全に演じきらなければならなかった。サーシャが王女賛歌を歌うのは迷惑だと、それが模範解答だった。

 二人の間に沈黙が落ちる。
 ミーチャはヴィーカの握った手を離さなかったけれど、ヴィーカの動揺ぶりは脈音で伝わったかもしれない。
 今ので自分が偽者であることが気づかれた可能性が高い。大公が王女を見捨てたのは、王女が偽者だと気づかれたからだ。

 実は王女は王女賛歌が嫌いではない。ヤローキンを嫌ってはいない――そういう話を、ミーチャの前でしなければならないのに、ヴィーカの口から気の利いた言い訳がなに一つ出てこなかった。

「あの……」

 ヴィーカはかろうじて絞り出した。

「大公は策士で有名だわ。何も言わずに消えるってことはないと思うの。何かあなたに手がかりを残しているんじゃないの?」

 ミーチャはしばらく考えた後、呟いた。

「まさかあの脚本か」

「脚本?」

「ああ、大公は私に脚本を贈られた。新作だと……」

「それを読んだの?」

「いや」

「そこに何か手がかりがあるんじゃないの? 大公の隠れ場所とか」

 ミーチャは顔色を変え、ヴィーカの手を強くひっぱった。二人は劇場に向かって一目散に走った。

 ***

 イーラの手元には、出版を控えた原稿がある。
 祖母の回想録だ。

「ミーチャが私がアナスタシア王女ではないと勘づいたのは、あのときでしょうね」

 病床の祖母はイーラに語った。初めて演じたアナスタシア王女の演技は稚拙だったと。
 祖母は年齢の割に記憶力は確かだったけれど、祖母の話は荒唐無稽すぎて、孫のイーラは完全に理解していたとは言いがたかった。

「それまでもミーチャは私があやしいと薄々気づいてはいたと思うの。でもサルティコフ大公の命令だから、疑う余地もなかったんでしょうね。大公は王族を見捨てるような方ではない。その方が見捨てたとなると、本物ではないと」

 祖母はうっすらと笑った。

「今にして思えば、サルティコフ大公は私が偽者と知って、あえてミーチャに護衛させた可能性が高い。いえ、きっとそれが真実なんでしょうね。私たちを囮にしている間、大公はきっと本格的に王女捜索に乗り出していたのだと思うわ」

 祖母はイーラの手を握って言った。

「でも王女を演じることができたのは、人生にとって大きな経験となったわ。人生に無駄なことって何ひとつないのね。私は何も見えていなかったの。王女である生活は天上の生活で、幸せなものだと思っていた。国民にとって国王一家は神にも等しい存在です。リトヴィス人王妃の子で、その血筋をいかに悪し様に言われようと、国民が王女に手をかけるはずはない。そう信じていました。だけど、アルトランディア人を見たときに思ったの。彼らの目には殺意が宿っていた。ああ、リトヴィス人と変わらない。同じ国の人に対してあれほどの恐怖を抱いたことはないわ」

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #23」(展示品六 「タチアナ・Lに関する覚書」

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