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藍色の夜

いつもと変わらぬ朝。
おもむろに一眼レフカメラを手に取った僕は、ノロノロと窓を開けテラスに踏みだした。
雲の切れ間からスポットライトのように差し込む陽の光が、寝不足の身体を突き抜けて窓に反射する。

ふいに緩やかな風が首元を撫ぜていった。まだ九月半ばだというのに少しだけ肌寒く感じる。あんなに騒がしかった蝉たちは、なぜか数日前からだんまりを決めこんでいた。急ぎ足でやってきた秋という季節は、大切な夏の記憶を無理矢理過去へ追いやろうとしているのだろうか。

「向こうに着いたら、やっぱりあのセーターが必要だな。佳那もカーディガンを羽織ったほうがいい……」

そんな瑣末なことをぼんやりとした頭で考えている。
リビングのテレビから、お天気キャスターのかわいらしい声が聴こえてきた。

「トースト焼けてるよ。早く食べちゃって」

佳那が僕を呼ぶ。

「わかってる」

僕は、テラスからリビングにいる佳那の姿をレンズ越しに見つめていた。

お昼までに羽田空港へ着けばいい。それからゆっくりと時間をかけてランチを楽しんで、そうして僕ら二人の北海道旅行が始まるんだ。その日の気分で決める行き当たりばったりの旅。一応二週間の予定だけれど、本当はそれすらも決めていない。

「ねえ、パンツのままテラスに出ないで。恥ずかしいじゃない」

唇を窄めてぷくっと頬を膨らませる佳那。それは小さな子にダメ出しをするときの顔で、僕をたしなめるときに見せるお得意の表情でもあった。34歳という年齢とは裏腹に、まだまだ少女のようなかわいらしさが佳那にはある。僕は思わずシャッターを切っていた。

「もう、なに撮ってんのよ」

「ごめんごめん」

パンツ姿でカメラを構えたまま変顔をする僕。その不意打ちに佳那の表情は崩れ、飛び切りの笑顔が弾けた。

「もう、本当やめて」

クスクスといつまでも笑いが止まらない。僕はそんな佳那の姿を、コーヒーを飲むふりをしてずっと見つめていた。


目には見えない砂時計。その透明な砂は、気づかれることなくサラサラとガラスの底へと溜まっていく。北海道で撮る空は、そのままいつかの空になるだろう。でも、そのことを僕も佳那も口に出すことはしなかった。



六月。佳那が退院してから三ヶ月が過ぎようとしていた。
雫を纏った紫陽花がマンションの中庭に咲き乱れている。どんよりとした毎日は、テラスを乾かす暇などそう簡単には与えてくれなかった。ただ、そんなじめじめした毎日が続いたとしても、僕ら二人が過ごす時間に何ら影響をあたえることはない。
僕は、タイムリープして毎日同じ繰り返しでもいいな……なんて叶わぬ願いをそっと胸の奥へしまいこんだ。

そのころの佳那は、すぐに疲れてしまいベッドで休むことが多かった。
それでも元気がある時間帯はやたらと家事に精を出していた。特にクックパッドを駆使して作る料理のあれこれは、この数ヶ月で目を見張る上達ぶりだった。
見たこともない料理を次々とテーブルに並べて自慢する姿は、一端の料理人気取りである。そんな、ちょっとおどけてみせる佳那のことを、僕はファインダー越しに追っかけては何度もシャッターを切った。その姿は何とも愛くるしくて、時にリスのような小動物を連想させた。
ただ、夢のような時間はあっという間に過ぎていく。佳那の可愛さにはガラス細工のような脆さがあり、何かあればすぐに壊れてしまう儚さも伴っていた。
僕は、初めから佳那と一緒に過ごそうと決めていた。

佳那が退院したその日、担当部署を営業から経理に変更してもらったこと、経理の仕事はリモートで行い出勤はほとんどなく在宅ワークでOKになったことを説明した。それは、佳那の病気が回復するまでの在宅看護期間として、成績優秀な僕だからこそ特別に会社が認めてくれたのだと自慢すらした。
佳那は初めのころ、

「毎日家にいるんじゃ、うっとうしいわね」

と憎まれ口を叩いていたが、すぐにその生活にも慣れ、いまではそれもまんざらではない様子。それは僕も同じだった。営業で外を飛び回っていた日々がほとんどで、結婚してから家の中でこんなにも同じ時間を佳那と共有したことがなかったのだから。

幸せは日常の中にある。何でもない日々がこれほどまでに愛おしかったのかと、つい心が負けそうになる。

佳那の病気が治ることはない。一ヶ月に一度通う大学病院から出される薬……それを佳那はちょっとした鎮痛剤だと説明するけれど、その薬には間違いなくモルヒネが含まれている。そしてそれは多分、きっと、その量は少しずつ増えていた。

僕も佳那に嘘をついていた。
佳那が退院するときには、すでに会社を辞めていた。どうしても佳那と一緒にいたかったのだから仕方ない。

ただ、そのときのあからさまな嘘は、梅雨のあとさきを包み込むような柔らかい時間を僕ら二人にもたらしてくれた。



「夏バテかしら、あたし、ちょっと食欲がなくて……」
佳那は少しずつ食が細くなっていった。

八月。真夏のギラギラとした強い日差しは休むことなくテラスに降り注ぐ。そんな容赦ない暑さの洗礼は、朝の洗濯物を昼前に乾かしてしまうほどの威力だった。厳しい暑さに立っていることさえままならない佳那の代わりに、僕は洗濯機を回し、教わったようにしわを伸ばしながら干して、さらに取り込むまでを担当した。そうして佳那は、リビングに座って取り込んだ洗濯物を畳むのが常になっていた。

夏休みの宿題は終わっているのだろうか。テラスから見下ろすと、ジリジリとした熱波などお構いなしにマンションの中庭を子どもたちが走り回っていた。そのキャラキャラとした笑い声と、ジージーと忙しない蝉の遠鳴りをBGMにして、佳那はリビングのソファで横になっている。

僕は、古いアルバムを本棚の奥から引っ張り出してきて無理やり佳那を起こす。

「これ、初めて見るよね?前にも話したと思うけど、この写真って僕が初めて北海道を旅行した時のやつなんだ」

「へぇー……これは見たことなかったなあ。ていうか君、やたら若いね。へへっ」

「いや、そこ笑うところじゃないから」

僕は写っている懐かしい風景の一枚一枚を手に取り、思い出しながら佳那に説明をする。

「午前中に新潟から乗船したカーフェリーが小樽に着くのは翌朝で、そこから最北端を目指して……」
「最北端のレストランで海鮮丼と毛ガニラーメンを食べたら一気にサロマ湖目指して……で、途中で殻付きの帆立を買って、気が付けば初日だけで800kmも車で走っていて……」

すると唐突に佳那が

「あたしも北海道行ってみたいな」

と言い出した。

「旅行か……。そういえば、佳那が病気になってから泊りがけの旅行なんてずっと行ってないもんね。退院して随分経つし……」

「もう大丈夫だよね?」

「うん……ちょっと会社に相談してみる。長めの夏休みが取れるかどうか、まあ何とかなるとは思うけど」

「それ、本気でお願いしてね。あたし毛ガニ食べたいし、雲丹も食べたい。殻付きの帆立だって食べたいし……」

「なんだ、食うもんばっかりだなあ。もっと景色を堪能しろ、景色を」

僕は、はしゃぐ佳那の姿に文句を言いながら何度もシャッターを切っていた。



翌日。
僕は佳那に「会社に行く」と言い家を出ると、その足で大学病院へと走った。

先生からは開口一番、すでに深刻な状態が続いていてご家族に説明が必要なタイミングだったと告げられた。

奇跡的に病気の進行が遅れているけれど、それは止まった訳ではないこと。そして病状は相当深刻で在宅看護の限界をとうに超えていること。さらに延命治療をしないことに同意をして最低限の投薬治療にしたけれど、医者として、もうこのまま放置する訳にはいかない……とまで言われた。

佳那はずっと黙っていたんだ。

生きることを尽くす手段として、手術や最新の機械を導入することは当然だ。けれど、そのことで二人の時間が少なくなることだけは御免だった。それは病気が発覚したとき佳那が初めに言い出したことでもあった。
ただ、そう決めた後から、僕は終わることのない葛藤に日々悩み続けていた。
それは佳那のエゴじゃなく、自分のエゴではないのか?その選択は本当に正しいのか?たとえチューブだらけの醜い身体になっても生き続けているほうがよいのではないか。でも――――――――。

先生から携帯の番号を教えてもらった。旅行先で少しでも様子がおかしくなったらすぐに救急車を呼ぶこと。何時でもいい……携帯で呼び出してもらえれば、病状の経過観察記録や使っている薬など、運び込まれた病院へすぐに伝えられると説明された。

診察室を出る間際、先生は僕を呼び止めた。

「正解なんて誰にもわからないですよ。ひとつだけ言えるのは、愛に勝るものはないってことです。佳那さんにはきっと伝わっている。あなたは強い人だ」

そう言うと先生は手の甲を目尻に当て、そのまま下を向いて肩を震わせた。僕は、鼻を啜る看護師さんにハンカチを渡されるまで、溢れ出した自分の感情に気がついてはいなかった。



八月の終わりから旅行雑誌を買いまくった僕らは、飽きもせず本の中で旅行をしていた。「ここに行きたい」「こっちも寄りたい」とか、タブレット片手に旅行雑誌を広げ、二人して北海道の地に想いを馳せる日々が、楽しくて、楽しくて仕方なかったのだ。

そんなことばかりに時間を費やしてしまい、僕らは九月に入ってもまだ北海道のどこへ行くのかを決めあぐねていた。とりあえず飛行機に乗って北海道に着いたら、そこからレンタカーを使うところまで決めている。

旅行を決めてからの佳那は、食欲が戻ったこともあり体調はすこぶる改善の兆しをみせていた。
つい、「こんな日々が永遠に続けばいいのに……」と思ってしまう。それは叶わぬ願いだと知っているけれど、そのときの僕は幸せの先送りをすることに必死だった。

けれど、灯滅せんとして光を増す……という仏教の言葉がじわじわと僕を苦しめていく。
もう終わりがそこまで来ていることを、本当はわかっていた。

「とにかく、もう行っちゃおう北海道に。それでリストアップしてあるところを順番に全部行こう。きっと、なんとかなるよ」

―――――――― 前夜。

夕食を食べ終えた僕らは入浴を済ませパジャマに着替えた。それからリビングのテーブルを横にずらして広いスペースを作ると、僕の大きな旅行用のスーツケースと佳那の小さな旅行バックを並べた。そんな些細なシーンも僕は逃さずカメラに収めていた。

「写真ばっかり撮ってないでちょっとは準備しなさいよ」

明日は午前中に羽田空港へ着けばいいけれど、朝バタバタするのは佳那が許さない。そういうところは何気に厳しいのだ。
結局佳那がテキパキと指示を出し、僕がそれぞれの旅行バックに荷物を詰めていくことになった。

「ねえ、パンツそんなにいらないでしょ?王様じゃあるまいし三枚でいいよ。コインランドリーで洗濯しながらやり繰りすればいいでしょう?まあそれってなんだか楽しそうだけどね」

佳那に半分怒られ半分けなされながらも、ワクワクとした旅の支度は進んでいく。

「このサングラスってあの時のだよね……」

「そうそう、海で溺れそうになってたよね、君は。ヘヘっ」

イジってくる佳那に苦笑いする僕。ただ、佳那の眼差しはそのとき優しさで一杯だった。
 

いま、スーツケースに詰めている物は、どれも佳那との想い出だった。
携行する文庫本は付き合い始めたころ佳那からプレゼントされたものだし、いま佳那の旅行バックに詰めたサングラスは、海へ行ったときに遊び半分で佳那に買ってあげたやつだ。

懐かしい想い出を語り合いながら、僕はそのひとつひとつを大切に旅行バックへと詰め込んでいった。

「このセーター懐かしいなあ……佳那もこれのカーディガンあったよね?着てみせてよ。もうずいぶん着てないよね?」

佳那のカーディガンは、僕のために編んでくれたセーターと、同じ藍色の毛糸を使って自分用に編んだものだ。佳那は箪笥から自分の編んだカーディガンを引っ張り出してきた。よく見ると、そのカーディガンは少しだけ色褪せていて毛玉にやられていた。

「えー……これ荷物になるし、さすがに毛糸は暑くない?」

「そんなことないよ、北海道をバカにしちゃいけないって」

「じゃあ、あたしも持っていくから一緒に着ようよ、ね」

「そうだな……」

ペアルックなどと恥ずかしいことが出来るのも旅行の醍醐味だ。佳那はカーディガンをパジャマの上から羽織ると、ポーズをとって僕に写真を撮らせた。

「これ毛玉ヤバいね。ま、いっか」

と、佳那は鼻に小皺を寄せてくしゃくしゃの笑顔をみせてくれた。

僕は知っていた。
きっともう、このカーディガンに佳那が袖を通すことはない。
薬はすでに限度を超えていた。
佳那の小さな旅行バックはそのまま遺品となり、佳那と荼毘に付すことになる。
そう、これは佳那とお別れをするための僕に課された大切な儀式だった。

透明な砂は、気づかれることなくサラサラとガラスの底へ溜まっていく。
目には見えない砂時計は確実に終わりへと近づいていた。でも、そのことを僕も佳那も口に出すことはしなかった。
僕はスーツケースのチャックをゆっくりと引き上げ、そうして鍵をかけた。

「もう寝よ」

支度を終えた僕らはベッドに入った。疲れたのだろう。佳那はベッドの上で小さく丸まるとすぐに静かな寝息をたてはじめた。

僕も目を瞑る。
けれど、簡単には眠れそうになかった。それはまるで、遠足を翌朝に控えた子どもみたいだけれど。

いくつもの想い出が目蓋の上を通り過ぎていく。それを、自分の胸の内に潜む湖へひとつずつ確かめながら、ゆっくりと、ゆっくりと静かに沈めていった。気がつけば随分な時間が経っていた。できることなら、毛布にくるまっている佳那のことをずっと眺めていたかった。

僕は、佳那を起こさないよう静かにベッドから抜け出しカメラを手に取った。シャッターの音で起きないように望遠レンズに付け替え隣の部屋の隅まで行くと、佳那の寝姿をそっとカメラに収めた。
撮りためたフィルムは、すでに50個を超えていた。きっと旅行先でもたくさん撮るだろう。でも、この先このフィルムを現像することはしない。佳那と一緒に燃やしてしまうことを、僕は最初から決めていた。そのためのフィルムカメラだった。

同じ空の下で出会い、恋をして、そうして僕らは結ばれた。
見上げれば、そこにはいつも通りの見慣れた空がある。けれど、人はいつまでも同じ空の下にいるわけじゃない。空は季節と共に移り変わっていくもの。今日の空は昨日に送られて、また新しい明日の空が訪れる。今日生きた証は昨日へ送られて、僕らはまた新しい明日を生きるんだ。記録とは過去の出来事でしかない。

僕らはもう二人で歩いていけないけれど、それは二人を分かつことではない。深く繋がった愛は確かな想い出として、誰にも邪魔されず記憶のなかで寄り添っていけるのだから。

僕には、デジタルじゃない想い出というアナログの記憶だけで十分だった。

もう、ここに戻ることはない。
僕は、スーツケースの横にそっとカメラを置いて、そうしてゆっくりと目を閉じた。


藍色の夜はいつまでもその色を留めてはくれない。すでに色褪せた紺青の空は昨日との境界線をあやふやにして、街にありのままの輪郭を浮かびあがらせていた。

夜が、明けていく。





〈 FIN 〉

サポートするってちょっとした勇気ですよね。僕もそう。書き手はその勇気に対して責任も感じるし、もっと頑張ろうと思うもの。「えいや!」とサポートしてくれた方の記憶に残れたらとても嬉しいです。