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「真実通信社」

 この「通信社」も10回程度となってしまった。正直言って、大した記事ではない。
 しかし、事実が真実を語っているとは限らない、と感じる私としては、今後も綴る意味があるのでは、と勝手な思いに駆られてしまう。

 この世界には、嘘と真実が有り、それらが折り重なって時代の流れと言う歴史が生きている人々の心理や感情を重ね、ゆっくりと隆起し、世界を形作っているのだと思う。なるべく真実だけに関わる方が良いに決まっているのだが、人生にはある時、嘘も貴重品の様に必要な場合があるかも知れない。
 
 では嘘は真実ではないのか。真実とは一体何なのだろう。と言うのが、この通信社の起点であり発端である。そして、果たして人の中に真実は存在するのだろうか。その探究も私としては興味深い。

 基本的に、人を単純に、勝手に、善悪で定義づけるとすれば「善でありたい悪」ではないだろうか。真実か否かで定義づけるとすれば「真実を求めたい不真実」
 これらを複合すれば「正直な善人でありたいと思っている嘘つきな悪人」

「そんな事はない。人は崇高な存在だ」とおっしゃる方は、恐らく良い人物だと思う。良い事を常に心掛けている人に違いない。

 人存在の現状を感情に置き換えれば「愛を求める憎しみの塊」
ここでも真実と不真実が、真と嘘が、愛と憎しみが、人にセットされている様に思える。だから、両方の定義を持たされていると言う現実が人の真実だと思う。

 では、その現実は一体どこから来ているのか。善と悪、愛と憎しみ、それは人の心から感情として発生したのか。人から発生しているのであれば、人は何故それを制御できず、それに翻弄されてしまうのか。感情とは何だろう。もっと言えば、人とは何だろう。人が自分で制御できないもの、それらを自ら自分の内部に兼ね備えていると言う事実。

 もし、科学者が言う様に、古来から連続した人の進化なるものが存在していて、人が人として気の遠くなるような膨大な時間を操作し、自分を進化させ、物理的な脳細胞を拡充させ、進化を遂げて来た存在であれば、無駄で不要な部分は退化されるべきではないのか。

 つまり、感情や感覚の面でも、不誠実や、虚偽や、憎しみや、呪いは、人にとって何も役に立たない不要な悪として、進化の過程で削除されるべきではなかったのか。皆が真実で、誠実で、正直で、愛である世の中がどれだけ快適なのか、人は知っているからこそ、それを求め続けていると思う。

 だから、もし人が本当に、今まで進化して来ていて、精神的にも進化の過程であるならば「感覚的悪の存在は廃止される傾向」でなければならないのでは、すでに争いや戦争が起こるはずのない時代が到来していなければならないのでは、精神もその領域に達成されるべきではないだろうか、進化の過程で、無駄である感情、感覚は排除され、優れた精神構造だけが残留する性質に達していなければならないのでは。
 もしくは、その傾向と過程が、現代の人類にも、見えていなければならないのではないだろうか。

 しかし、何度も言うが人間には、何千年もの間、相変わらず不誠実があり、嘘があり、妬みがあり、憎悪があり、敵対心があり、政治戦略の最も愚かしい武力行使、所謂「殺し合い」が歴史的に正当化され行われ続けている。この時代、むしろ悪は増大している様に思う。何故だろう。

 実は、人は進化してはいない。言い換えると、人は進化したものではない。
 では人はどこから来て何処へ向かっている存在なのであろうか。人の発端とは何か。

 人は、動物として唯一、人としての理性が持たされ、存在させられている。その理由を探る事、その理由が判明し、明確化されない限り、私達に本当の平安は無いのではないか。私達の中に既に棲みついている悪と呪いが何であるのか。この悪と呪いが世界を席巻し、あらゆる悲惨なニュース記事を賑わす。そしてそれが人類の歴史として記録に残されて行く。争いに満ちた血塗られた歴史。人は決して、自ら独自に進化したものでは無いし、もし進化した存在だと思うのであれば、それは人類の勝手な思い上がりにしか過ぎないのでは。

 過去は未来に向かって流れているが、もし、人が、今後何もやらなければ、退化しようとする時代の中に人は生きるのだと思う。そして、これから先、益々世の中は悪くなり、住み難く、存在し難くなる。だから、この時代には、真実と呼べるものが是非とも必要ではないだろうか。
 人が悪である事も真実には違いないが、その人が善を望んでいる事も間違いない。誰が、平和より争いを、愛より憎しみを心底望むのだろうか。

 愛と平和は、甘っちょろいたわごとで、破壊と悲惨の中にしか、人は生き甲斐を見つける事が出来ないと言う事実が、人の進化で、最先端であるならば、人には未来が無い事になる。人類は、思いのほか過酷な終焉を迎えてしまうに違いない。
 だからこそ、身近で些細な出来事からでも、本当の事は何なのか、を探究したいと言う欲求に、日々駆られている様な気がする。

 日頃「身近な真実を見落としている」から、私達は大きな見解を誤って受け取っていても、何の疑問も持てないのだと思う。この世の中に慣れきってしまっていると言う事は「真実をすでに見失っている」事だと思う。

 真実は、砂漠の中で枯れかけた井戸の様に、何度でも掘り起こされるべきだ。それが私達にある、尊いいのちにつながっているのではないだろうか。
 誰しも、誇張無い、利害関係の無い、誠実で真実な見解を求め、それを知る権利に、飢え渇いているのではないだろうか。


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