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赤い月に咲く

登場人物

星野 咲(さき)(二十一歳)主人公
木村 勇人(ゆうと)(二十二歳)咲の彼氏
星野 詩織(しおり(四十歳)咲の母親
立花 詩織(十八歳)詩織の高校生の時代
水谷 雄介(ゆうすけ)(二十歳)詩織の彼氏

君江(咲のアルバイトの同僚)
黒田(勇人のアルバイトの同僚)
矢作(勇人の会社の同僚)
望(勇人の妹)


「咲、夕飯の買い物、後でお願いね」
咲の母親、星野詩織(四十歳)がアイロンをかけながら学校から帰ってきた咲に話しかけた。
「無理、無理、すぐに出かけるし」
咲はカバンを部屋に置き、急いで着替えた後、
台所の冷蔵庫から飲み物を出しコップに注ぐと、一気に飲みほした。

 口をぬぐいながらふと居間のほうを見ると、
母が汗をかきながら咲の制服のワイシャツにアイロンをかけている。西日がきついその部屋はレースのカーテンがかかっていて、ほてった顔で(ふぅ)とため息をつきながら首筋にときおり垂れてくる汗を母がハンカチでぬぐっていた。

咲は、カーテンから漏れる光に照らされる母の顔が、その時は何故だか、とても四十歳には見えず、いきいきと若く美しく感じた。咲が高校二年生の時だった。

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ーーその一年後

「ただいまぁ」咲はバラの花を持ち、学校から帰ると母の姿はどこにもなかった。(買い物かな?)咲は一度自分の部屋に行き楽な格好に着替えてから台所の水を花瓶に入れてから、学校帰りに買ってきたバラの花を差すとテーブルに置いた。するとテーブルの上に父宛の手紙と母の「ハンカチ」が置かれている。

 父が会社から戻ると、咲にうながされテーブルの上の手紙を読んだ。手紙を読む父の手は小さく震えていた。母はそれっきり家に戻ってこなかった。咲が高校三年の十一月十九日の母の誕生日の事だった。


「咲ちゃん、明日の準備してくれる?」
「はあい」咲は黒く長いエプロンをして店の奥でさっき店長が市場で仕入れてきたばかりの花を売り場に出す準備をしていた。

星野咲(二十一歳)去年短大を卒業して就職活動をしていたが、就職難もあって自分の進む道が見つからず就職先が見つかるまで花屋でアルバイトをすることにしたのだ。
 大きい道路沿いの交差点横のその店は、近くに花屋が無いこともあっていつも忙しく閉店は夜の十時を過ぎていた。

「うるさいわねぇ」オーナーの奥さんの君江が言った。見るとお店の前で道路工事が先週から始まっていた。「この時期は多いのよ。早く終わらないかしら」今日は十一月の十九日で年末近くになるとどこでも工事が多くなる「咲ちゃん、遅くなるからもう上がっていいわよ」君江がそう言うと「はあい。じゃ、上がります」と咲はエプロンをとろうとしたが、思いだして「君江さん、バラの花何本か買ってもいいですか?」
「いいわよぉ、あげるから持って行きなさい」 
君江がそう言うので咲は「ありがとうございます!」とお礼を言ってから、手際よく赤いバラを5本取り、簡単にラッピングすると、咲は何故か少し寂しそうな顔をしたのだった。

 店を出て駅に向かう途中、咲はバラを見ながら考えごとをしていた。するとビル風が急に強く吹くので咲はバランスを崩し前から歩いてきた人に持っていた花ごとぶつかってしまう。バラの花びらが何枚か風に飛ばされ、咲は「ごめんなさい」と一言あやまり、今度はバラを大事に抱えて持ち直し、転ばないよう注意しながら駅に向かって歩いていった。

「にいちゃん、頑張るね」黒田が勇人に言ったが、勇人はアスファルトをドリルで壊していたので、話しかけられていることに気がつかなかった。黒田は勇人の顔の前で手をパタパタ、させてもう一度「にいちゃん、昼間も仕事してるんだろ?」やっと話しかけられていることに気がついた勇人は、ドリルを止めて「はい?」と答えると「にいちゃんさ、昼間も仕事してなんで夜までこんなアルバイトしているのさ?」黒田にそう聞かれたので、

「ああ、ちょっとお金が必要で」と答えると
「へぇ、まあそうだろうなとは思ったけどよ、適当にしないと身体もたねぇぞ」と言われて笑顔で「はい、気をつけます」と答えた。

黒田の人柄に勇人も話しやすくなったのか
「黒田さんは……」と話しかけた時(びゅう)とビル風が強く吹いてきて、さっき削ったアスファルトの粉が目に入ってしまった。
(いてぇ)目をつむってからしばらくこすっていると、風と一緒に運ばれてきたのか、赤いバラの花びらが自分の作業着の腕についている。(あれ?)と思ってつまんでみると、まだ新鮮な花びらだった。勇人はしばらく花びらを見つめながら、母の事を考えていた。

 木村勇人(二十二歳)高校を卒業してすぐに東京に上京してリフォーム会社に就職した。実家の福島には母と三歳下の妹がいて、父は勇人が高校生の時に亡くなっている。去年から母の具合が悪く、とうとう一週間前から入院することになってしまった。
 勇人は母の入院費を作るために会社が終わった後、日払いでお金がもらえる道路工事のアルバイトをすることにしのだ。

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 勇人は黒田に「休憩に行って来い」と言われて、コンビニでおにぎりを二つ買ってから、近くの川に来ていた。街のすぐ裏にある小さな川は街灯に照らされて夜なのに結構明るく半円形の橋がかけられている。川沿いのベンチに腰掛けて、おにぎりをあっという間にたいらげると、ゴロンとベンチに横になった。

 冬の空はこんな明るいところでもけっこう星が輝いていて(綺麗だなあ)と思いながら、ふと、死んだ父の顔を思い出していた。勇人の実家の福島の家はやはり川の近くにあって、小さい頃父が勇人をつれてよく遊びに来ていたのだった。当時父は大工をしていて、色んな道具を自由自在に扱う父を、小さい勇人はいつも目を輝かせてみていたものだ。忙しい父だったが、勇人との時間を大切にしてくれる、そんな優しい父だった。

 父が死んでからは、勇人は母親と妹を自分が守らなくてはと思うようになっていた。この街にきたのも、福島よりかせぎがいいのが理由だ。手先が器用な勇人がリフォーム会社に勤務したのもきっと父に似たのだろう。

 勇人はさすがに疲れているのか眠くなってきてあくびが数回出来てきた。眠らないように何回か顔をはたいてみたが、そのうち目がとろんとしはじめてきて、そのまま眠ってしまった。


 咲は花屋のアルバイトが終わってから駅には行かず、しばらく場所をさがして歩いて、近くの川まで来ていた。そして橋の上まで来ると、悲しげな表情で、しばらく(じっと)見ていたが、持っていたバラの花を一気に川にほうり投げたのだった。

咲は毎年母の誕生日になると母が好きだったバラの花をプレゼントしていた。母の日に花をあげるのはすこし照れるが、誕生日にはなんとなく、すんなりプレゼント出来るような気がして、中学二年生から毎年自分の貯金を使って買いに行っていた。

 母が家を出た後も、咲は母の誕生日にバラを買っていた。自分でも何故そんな事をしているのか分からなかったが、自然と身体がこの日になると咲の気持ちとは関係なく動いてしまう。まさか家に持って帰るわけにもいかず、買った後の処理に困り、その度にどこかに捨てていたのだ。

 バラを捨てた後、橋の上で咲は泣いていた。

何故母が家を出たのか、私を何故捨てたのか、たくさんの疑問を父に聞きたかったが、父の落ち込んだ姿を見ていると、とてもそんな気になれなかった。(きっと大人の事情があったのだろう)咲も二十歳を超えてからそう考えるようになった。

 咲はポケットからハンカチを取り出していた。母がいなくなった時テーブルの上に置かれていた「ハンカチ」だ。自分の涙をハンカチで拭いてからしばらく見つめた後、しばらく目をつむり、一度深呼吸してから、右手を大きく上げてハンカチを川に捨てようと……思ったが、どうしても出来なかった。涙があふれどうにもとまらない。咲はもう気持ちをこらえることが出来なくなって、大きい声で泣いたのだった。まるで子供のように、おもいっきりどこかで泣きたかった。

ベンチで眠りこけてしまった勇人は、誰かの泣く声で目がさめた。「なんだ?」見ると橋の上で女の子が泣いている。(まさか、自殺しようなんて、こんな川でまさかね)ふと、へんな考えが浮かんだが、川底の浅い目の前の川をみて(違うだろう)と思った。「あ!」とまたもや大きい声がして、橋のほうを見ると、女の子が橋の下をのぞいている。(何か落としたのかな?)そう思って見ていると橋のほうからハンカチが流れてきた。

 勇人は気がつくと川に入り、ハンカチを拾っていた。濡れた足をピチャピチャさせながら橋の上まで持っていってから

「はい、濡れちゃったけど」とハンカチを咲に渡した。

びっくりした咲はしばらくぽかんとしていたが、やがてゆっくりと手を出して「ありがとう」と勇人にお礼を言った。

 勇人が咲の足元をみると、さっき川にほうり投げた赤いバラの花びらが数枚落ちていた。

 勇人は花ビラを一枚拾ってから、咲に
「今日はこれで二度目だ」と言ってバラの花びらを渡すと、自分のぐしょぐしょになった足を見て「あちゃ」と言った。

 咲はそんな勇人の人柄が何故か安心出来て「ぷっ」と笑ってしまった。
さっきまで泣いていた咲の笑い顔を見て、勇人は安心し「じゃあ」と言って立ち去ろうとしたら、咲が勇人に「あ、ありがとう…」とお礼を言うと、
勇人は一度振り返り、笑顔を見せてから歩いていく

 咲は勇人が見えなくなるまでしばらく見ていたが、見えなくなったのを確認してから、勇人に拾ってもらった濡れた母の「ハンカチ」を見て、テーブルに置かれていた時の事を思いだしていた。
 咲は父宛の手紙の横に置かれていた母の「ハンカチ」を手にすると、何故か少し湿っていたのだ。その時は何故だろうと思ったが、今では何故なのか分かる気がした。

 そして咲の手の中にある「ハンカチ」とバラの花びらをもう一度見つめてから、一度深呼吸し、川に投げた。
 咲はもうこれでふっきれた気がした。それも勇人のおかげだと、もう一度勇人が歩いた方向をみつめた後、咲も今度は勇人とは逆方向に、歩いていったのだった。

ーー再会


「咲ちゃん、急いで急いで」君江がそう言うと、咲が「はあい」と返事をした。

 今日はレストランウェディングで使う花の依頼で朝から忙しかった。

(プープー)というバックの音と共に、店の前に二トントラックが駐車され、荷台に依頼された花を君江と咲が積み込みをしている。
 決められた時間より前にレストランに到着しないとセッティングが間に合わなくなるので、時間に遅れないよう君江はきつく客に言われていたのだ。

「これで全部かしら?」焦る君江はあたりをキョロキョロした後、運転手に
「じゃあ、行ってちょうだい」と言って車を出発させようとした時、店の奥から咲が胡蝶蘭を持って外に出てきた。車が出発するのが見えた咲は、「まって、まって」と大声で胡蝶蘭を持ってトラックを追いかける。

君江はその光景を見てまだ積み残しがあった事を知り、(しまった!)と口に手をあてていた。

 今日は土曜日、会社が休みなので勇人は朝から道路工事のアルバイトに来ていた。

「邪魔だなあ」さっきから横に、二トントラックが置かれていて工事が進まず勇人は車が退くまで待っていた。するとトラックはやっと走りだし、何か騒がしい声が聞こえてきた。見ると胡蝶蘭を持って車を追いかけている女の子が見えた。

(あ!)勇人はすぐにそれが咲だと分かり、(ここの花屋で働いていたんだ)と思ったら、なんだか急に照れてしまい、自分がいることを悟られないように、ヘルメットを深くかぶりなおしてから、クルっと後ろを向いて仕事をはじめた。

「あ!こら!にいちゃん」黒田がそう叫ぶが
勇人は上の空で、黒田がもう一度、
「おい、そこじゃねえぞ」とさらに大声で叫び、勇人の肩を後ろからつかんだ。いきなりつかまれた勇人はびっくりして、後ろに置いてあった赤いコーンにひっくりかえってしまった。

「いってぇ」

勇人が倒れた状態で黒田を見上げてから
「何なんですか?」と聞くと、
「ばかっ、お前違うところ掘ってどうすんだ」と言われて、自分がやっと指定されていない場所を掘削しようとしていた事を知った。
 勇人は起き上がり、ころんで汚れたズボンを手で叩いていると、なにやら視線を感じ、(まさか…)と思い花屋のほうに視線をずらすと、さっきの騒ぎで咲が勇人に気がつき、こっちを見ている。
 勇人は知られてしまった以上無視するわけにもいかず、バツの悪い笑顔を作り、咲のほうに手を(チョっ)と上げてから、顔を赤くしながら、またもやヘルメットを深くかぶりなおした。

 勇人が休憩であの川のベンチに行くと咲が先にベンチに座っていた。勇人がベンチに行くと咲はもう一度勇人にお礼を言ってから、少し話をしていいかと勇人に聞いてきた。それを聞いた勇人は、コンビニの袋から二人分のコーヒーを出してひとつ咲に渡すと、咲も「にこっ」と笑って受け取った。

 勇人は母の入院の事、父が高校生の時に亡くなっている事、そして咲は毎年母の誕生日に赤いバラを買っていた事、咲が高校三年の母の誕生日に母がいなくなってしまった事、その後もバラを買って捨てていたこと、そして、勇人に拾ってもらったあの「ハンカチ」をあの後捨てた事も話しをしていた。

 川の横のベンチに座り、星が瞬く時間から空が白々してきても、二人には時間が足りないと感じるくらい話しはつきなかった。

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――二十二年前

「詩織、また明日ね」
 同じクラスの由実と別れてから詩織は歩道橋の上に来ていた。

地元の短大の入学願書を手にして、昨夜父と喧嘩したことを考えてため息をついていたのだ。
「お前が気にすることじゃない」父は大きい声で詩織をしたためた。家の経済を考え就職したいと詩織が言ったからだ。
「でも、お父さん」詩織が言うと
「うるさい、いいから短大に行け」父はそう言うとテレビをつけて背を向けてしまった。
立花詩織十八歳。肩より下まである髪の毛はひとつに縛っている。色白で目はくりっとしていて健康的な頬はいつもピンク色をしていた。家族は父と八歳下の弟の三人。母は詩織が七歳の時に病気で亡くなっている。

そう、詩織は後の咲の母親である。

「あっ!」
昨夜の父との会話を思い出し遠くを見つめていると、急に風が強く吹いて手にしていた願書が風で飛ばされてしまった。
 歩道橋の下には一台のバイクが走っている。詩織の手から離れた願書がひらひらとバイクを運転するその男のヘルメットに引き寄せられるようにふれたその瞬間、(キキー)と男はハンドルを右に切り、バイクのタイヤが路面をこれでもかと鋭くこする音が響きわたる。あっと言う間に振り落とされ見ると男が道路に倒れていた。

 詩織はびっくりして何が起きたのか一瞬分からなった。膝はガクガクして一歩も歩けないほどだったが、頭より先に詩織の身体はすでにその男の元に走っていた。

「どうしよう、どうしよう」

詩織がオロオロしていると、周りの人が駆け寄ってきて機転がきく一人が公衆電話で救急車を呼んでいる。

「大丈夫ですか、あの…」

何をどうしていいのかわからず倒れた男に問いかける。
 しばらくして男の身体がすこしうごめいてから「痛てぇ」と声がした。
詩織と、雄介最初の出会である。

それからすぐに救急車が来て、心配そうにそばに立っていた詩織は、知り合いだと勘違いされて一緒に病院にいくことになった。
検査の結果は軽い脳しんとうで骨折もなく念のため一日だけ入院することになった。

「本当にごめんなさい」

涙をためて謝る詩織に雄介は「夜勤明けで居眠り運転していたから」と詩織を責めることもなくぶっきらぼうにそう返事をした。

「家の人に連絡しなきゃ」そう雄介に言うと

「たいしたことなかったから」と言って連絡をしようとしない。

帰るに帰れず詩織が困っていると、
「もう大丈夫だから」と言って詩織に帰れと言ってきた。
「でも……」と詩織が考えていると、雄介が急にお腹をかかえてうずくまる。詩織はびっくりして医者を呼ぼうとすると「腹へった」となんともひょうしぬけすることを言ったので詩織は笑ってしまった。
「昨日から何も食べてないんだ」そう言って雄介はベットに大の字になった。

 病院の待合室でカップラーメンを食べながら詩織と雄介は話をしていた。詩織は不思議だった。はじめて逢う男にこんなにも自分の事をさらけだせるなんて、不思議な安心感を雄介に感じていた。雄介は昼間引っ越し会社に勤めていて夜は深夜までガソリンスタンドでアルバイトしていると話してくれた。
 ガソリンスタンドは詩織の学校の近くだった。

「お詫びに夜ごはんのお弁当つくりたい」

自分で言って詩織はびっくりしていた。まだよく知らない雄介にお弁当を作るなんて、どうしてそんな考えになったのか。

ただ(このまま雄介と離れたくない)詩織は無意識にそう感じていた。
「そんなことされても困る」と言う雄介を説得し、詩織はそれからしばらく学校から家に一度帰ってから、お弁当を作ると、雄介が働くスタンドに持っていくようになった。

水谷雄介(二十歳)父と二人家族。
母は雄介が小学三年の時交通事故で死んでいる。
父は母が死んでからいつの頃からか、あまり話さなくなった。その内お酒を飲むことが多くなり、仕事もしたりしなかったりで、家賃も滞納することが重なり、やむなく借金をするようになっていった。
そういった事情から雄介は高校の時からバイトをして稼ぎ、卒業と同時に昼と夜働く生活を続けていた。

詩織はお弁当を持ち少し離れたところから働く雄介をみていた。
道路に面したガソリンスタンドは奥に雄介のバイクが置かれていて、夜のバイトは雄介を含め3人いる。

「おぃ、あぶないから、こっちにこい」

スタンドにいつの頃か、なついた茶トラの野良猫に雄介が話しかけている。遊んで道路に出ようとしたのをみて雄介が止めたのだ。

「車がくるから、こっちにこいって」

そんな雄介の姿をみて詩織はなんだか懐かしいような暖かい不思議な気持ちになるのだった。


「短大行けよ」
詩織は雄介のバイトが終わりバイクで家まで送ってもらっていた。

家の前にある公園で降ろしてもらい、いつも少しだけ話をしていたのだ。
「短大行けよ」もう一度雄介は詩織に言った。
「なんで?別に大学にこだわらなくっても」
すこし頬をふくらませて詩織が言うと
「いいからそうしろ」そう言って詩織の手を握ってきた。

「わかった」

はじめて手を握ってもらい、詩織は嬉しくなってついそう答えてしまった。

「ねぇ、じゃあひとつ私のお願いきいてくれる?」

詩織がそう言うと、どんなお願いか疑うように雄介が詩織を見ている。

「来週の十一月十九日、私の誕生日なんだ」
「へぇ」そう雄介が言うと
「一緒にいてくれる?」

断られたらどうしようと下からおねがいするように見る詩織に、ちょっと笑いながら

「わかったよ、じゃあ海でもいくか」と言って詩織の頭をぽんぽん叩いた。

詩織は嬉しくなって何度も「約束ね」と言ってから家に帰っていく。雄介は詩織が家に入ったのを確認してから自分も家に帰っていった。

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ーー別れ

「ただいま」雄介が家に戻ると、重い空気が部屋を覆っていた。

見ると家の中が荒らされている。雄介は鼓動が激しくなり、急いで父を捜した。
「とうさん」ソファに倒れた父に駆け寄ると父の口から血が流れている。心配になり顔を近づけるとアルコールの匂いがした。
(借金とりに殴られたのだろう)そう察っすると、父をベッドに横にして口がただ切れただけでどこも異常がないのを確認すると、雄介はキッチンの椅子に倒れるように座った。

ため息をつく。後ろを向くにはあまりにも辛すぎた。自分を偽ってただ前だけを見て雄介はこれまで生きてきたのだ。そのエネルギーは絶えず波となって上下に動き、それが自分でもコントロール出来なくなることがある。
 父の心臓の鼓動を確かめて、まだ動いていると安心し、一方で絶望もした。光を求めてもつかみかけた光はむなしくも雄介の手の中でいつも消えてしまう。頭の中で白い靄がたちこめて息が苦しくなって吐き気がしてくる感覚だった。
 しっかりしているとはいっても雄介はまだ二十歳だ。雄介の稼ぎはたかがしれている。先月から遅れている借金を今月返済しても終わりのない生活に雄介は疲れていた。

 テーブルに置く手で顔を覆いながら詩織の事を考えていた。詩織はまるで極寒の中で見つけた暖かい暖炉のような感じがしていた。自分を信じる詩織のまっすぐな目を見ていると、自分は詩織になんでもしてあげられるような自信が不思議とついてくる。
家に帰り父の顔を見ると、まるで全身をクモの糸で縛られた気になるが、詩織と話している時だけが、雄介の身体にからまった糸を解き放ち、楽に呼吸が出来た。二人の間に目に見えない絆が形成され、逢う度に絆の糸が太くなっていく。雄介は既に定められていたように詩織に好意を抱くようになっていた。

 次の日詩織がスタンドに行くと雄介はバイトを休んでいた。詩織が他のバイトの人に聞いても無断で休んで理由が分からないと言っている。詩織は心配になったが雄介の家を教えてもらっていなかったので、どうすることも出来なかった。

 次の日もその次の日も雄介はスタンドにこなかった。茶トラの野良猫が心を開いた主人を恋しがり寂しそうにいつまでも鳴いている。

 雄介に逢えないまま、とうとう詩織の誕生日の十一月十九日がやってきた。(約束したんだから)詩織は海で雄介と食べるつもりでお弁当を作り、家で雄介が迎えに来るのを待っていた。

 家のテーブルで肩を落として座っていると玄関の向こうでバイクの走り去る音がする。詩織は急いで玄関の外に出てみると既に誰もいなくて、ただ玄関のポストに赤いバラの花が一輪置かれていた。冷たい風が詩織の長い髪をかすめる。それっきり二度と詩織は雄介と逢うことが出来なかった。

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ーー二十二年後

「星野さん、今日のスケジュールここに置くわね」介護施設に常勤している看護師の幸子に今日のスケジュールをもらい、星野詩織(四十歳)はいつものようにデスクに座る。

 詩織は二十年前に今の夫と結婚し、娘も一人生まれた。自分の誕生日に好きな赤いバラの花をプレゼントしてくれる優しい子供に恵まれて詩織は幸せに暮らしていた。

 介護のヘルパーをしていた詩織は、務め先の施設に今日も来て担当する人の注意事項を確認していた。すると外で騒がしい声が聞こえてきた。
「何かしら?」
庭に出てみると車いすに座る老人が大声で騒いでいる。その横には家族らしい人が困った顔で寄り添っていた。
「水谷さんよ、先月から入ってきたんだけど痴呆がひどくて」幸子がそう言うとつづけて
「息子さんがいるんだけど、八年前に奥さんを病気で亡くされていてそれからずっと一人でお父さんを看病してるそうよ」そう幸子が説明してくれたが、詩織はそれどころではなかった。自分の目を疑った、夢を見ているかのようだった。
「雄介……」
放心状態になっていた。
ただ、目の前にずっと逢いたかった人がいる、それだけで頭が真っ白になっていた。

 雄介は騒ぐ父をなだめながら車いすをひいて部屋に入っていった。しばらくして部屋から雄介が出てくると廊下の向こう側から視線を感じる。なんだろうと思って視線のほうに目を向けると、そこに詩織が立っていた。
 ほんの二・三分だった。なのに二人には一時間くらいのように感じていた。詩織と雄介は懐かしいまなざしでお互いを見つめあっていた。

 二人は庭のベンチに座って話しをしていた。

あれから二十二年が過ぎた。もう遠い昔の記憶のはずだったが、こうして隣に雄介が座っている。詩織の心は複雑だった。
「やあ…」雄介は気まずく笑顔でそう言った。少し歳をとったが雄介の相変わらずぶっきらぼうな話し方は、変わらない暖かさを持っていることを詩織は感じていた。

 詩織は聞きたいことが山ほどあったが、隣に座る雄介をただ見つめているだけで胸がはりさけそうになった。
それからしばらくたわいもない話をして二人は別れた。今さらあの時のことを聞いたところで何もならないことを大人になった詩織には分かっていた。

もう十月になったと言うのにとても暑い日だった。その日は施設の催事で使う花があまったので各病室に配っていた。

 詩織は誰も入居していていない病室に人影を感じた。なにげなくのぞいてみると部屋の中で雄介が一人窓の外を見ている。
何を考えているのかその目がとても悲しげで声をかけることも出来ずそのまま立ち去ろうとしたら持っていた花がいくつか落ちてしまった。
音に気がついた雄介はこちらを見ている。

 詩織はどうしていいのかわからず立っていると、雄介は落ちた赤いバラの花を拾い詩織に「お誕生日おめでとう」と言った。

 詩織はびっくりして目を丸くしていると、「あの時は直接渡せなかった」と雄介が言う。

 ではあの時玄関のポストに置いた赤いバラはやっぱり雄介だったのかと改めて思ったら、詩織はまるで十代の娘のような顔をしてあふれる涙がこぼれてとまらなくなっていた。

 あの時雄介は借金に追われてあの家にいられなくなっていた当時の事実を詩織に話し、詩織の誕生日の日に父親と一緒に鹿児島の親戚の家に行かなければならなかったこと。そして電車の時間までにどうしても詩織に逢いたくて家まで行ったが顔を見る勇気がなくてバラを玄関に置いて立ち去ったことを話してくれた。

 涙を流しだまって話を聞いていた詩織をみて、雄介は自分のハンカチをポケットから出して涙を拭いてくれた。
 
 詩織は家でアイロンをかけていた。雄介が自分の涙を拭いてくれたあの「ハンカチ」だ。西日が差すその部屋はたしかに十月だというのに暑い日だったが、詩織の頬を染めていたのは暑さのせいだけではなかった。

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それから一年後、雄介の父は帰らぬ人となった。
 お葬式も終わり、雄介は施設で部屋のかたずけをしていた。詩織も手伝っていると雄介がいきなり「海に行かないか」と言ってきた。
あの時の約束を遅くなったけど守りたいと雄介は言った。

 二人はまもなくして約束の海に来ていた。

 詩織が海を見ていると雄介はずっと言えなかったことを言いたいと言っている。

「ずいぶん時が経ってしまったけれど、あの時詩織がいたから自分は癒された。今日はどうしても詩織と海に来たかった」

 詩織はだまって雄介をみつめていた。

「あと一年だって言われているんだ」

「あと一年?」

そう雄介が言うと 雄介はまっすぐ詩織をみつめて

「僕の命、癌なんだよ」 

「うそでしょ?」

雄介は真剣な眼差しで詩織を見ていた。

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ーー運命の日

玄関に宅配の人がきて詩織が段ボールを渡す。
その日は十一月十九日、段ボールには鹿児島の住所が書かれていた

雄介と海に行った後詩織は考えていた。自分は家庭があり子供もいる。昔の恋に燃えて家庭を捨てるような無責任な事が出来るような人間ではなかった。そんなことは考えたこともない。なのに一緒にいる事がたとえあと一年だとしても、それでももう一分でも雄介と離れることが出来ないほど強い縁を詩織は感じていた。

 咲がもうすぐ帰ってくる。その前に夫に手紙を書かなくてはいけない。
そう考えていたら咲の小さい頃の事が蘇り無責任な母を一生許してはくれないだろう、一生わが子に逢うことは出来ないと思うと涙が止まらなかった。

 持っていた「ハンカチ」で涙をぬぐいながらなんとか夫に手紙を書いてから玄関に歩いていく。雄介との待ち合わせの時間に行くにはもう家を出ないといけないと分かってはいるが、玄関からどうしても足を一歩前に出すことが出来ずにいた。

 すると玄関前にバイクの音がした。雄介だ。
ここで家を出なければもう二度と雄介に逢うことは出来ないと思うと、そのほうが怖かった。
 詩織は重い足を動かし玄関を出てから、一度振り返りあふれる涙を「ハンカチ」で拭こうとおもったらテーブルに忘れたことを思いだし取りに戻ろうとする。するとバイクを降りてきた雄介が自分の「ハンカチ」で詩織の涙を拭いくれた。
 詩織は二度と帰る事の出来ない自分の家をもう一度見てから雄介の手をとり、顔を下に向けて家を後にした。それは詩織の娘の咲が高校三年の、母の誕生日の事だった。

ーーそして五年後

「行ってきます」勇人がそう言って玄関を出ると、部屋の奥から「行ってらっしゃい」と咲の声がする。

 今日は朝から冷たい風が吹いていた。
そこは駅から離れた二間のアパートで、キッチンの前に置かれたテーブルには花瓶にバラの花が一輪差してある。咲と勇人は一緒に住むようになっていた。
 一緒に住みたいと言ったのは咲のほうだった。二人で暮らしたほうが家賃も半分になる。咲の提案に勇人へのやさしさが含まれたことを心で感じていた勇人は、だまってうなづき、咲の両手をやさしく握っていた。

咲は花屋をやめて駅前の不動産屋に勤めていた。

その日は客を部屋まで案内し、会社に戻る途中だった。
咲はさっきから何か身体に不思議な感覚を覚えていた。不安とも幸福ともいえないその不思議な気持ちは咲にも何なのか分からなかった。時おり自分を誰かが見ているような頭のしびれるような感覚に陥った。後ろを振り返るが誰もいない。(気のせいだろう)咲は思い直し、会社に足を急がせた。

風が吹いて落ち葉が道路を踊っていた。見ると咲から見えない位置の道の反対側に、手を(ぎゅっ)と握りしめて咲を見ている人がいる。見たところ四十歳半ばくらいのその女性は、悲しい表情で歩いている咲を見えなくなるまで(じっと)みつめていた。

午後になるとさっきまでの冷たい風も少しやわらぎ穏やかな気候に変わっていた。

「矢作さん、ここうまくいかねえや」勇人が矢作にそう尋ねると
「寸法があってねえんだよ」そう勇人に言うと「貸してみろ」と言って少しカンナで削ってから矢作はあっという間にすっぽりとキレイに隙間に収めてしまった。(すげぇ)勇人は矢作の手さばきをみて、感心していた。

 六十五歳になる矢作は勇人がリフォーム会社に勤めていた時の知人で、矢作の誘いで勇人は大工の道に進んでいた。道具の使い方から寸法の取り方、材質の違いなど一から矢作に教えてもらっていた。勇人は色々な道具を使いこなす矢作に死んだ父を重ねていた。

 勇人には悩みがあった。病気がちな母と妹に仕送りをどうしたら増やせるのかと、まだ見習いの勇人にはそれが出来ないのが悔しかった。そんなことを考えていると後ろで何か崩れる音がして、振り返ると矢作が倒れていた。

 勇人は病院に来ていた。矢作の病室の前でさっきまで矢作の息子夫婦と話しをしていた。矢作は末期のがんだった。聞くと矢作本人も知っているらしい。(全然知らなかった)勇人は父を重ねてきた矢作の病気を聞いてショックを受けていた。

 矢作の病室の前で一度深呼吸してからノックをする。
「はい」矢作が中で答えている。
ドアを開けて中に入るといつもと変わらない矢作がいた。
「おお勇人、来てくれたのか」矢作は笑顔でそう言うと、冷蔵庫から缶コーヒーを出して勇人に渡した。
 勇人は矢作が何故病気の事を自分に隠していたのか聞きたかった。相変わらず好きな野球の話しに盛り上がる矢作は、そんな勇人の気持ちとは反対に楽しそうにしている

勇人は不思議だった。(何故こんなにも自然なのだろう)

 自分の死に直面し、人は恐れや不安、恐怖といった現実では想像できない闇と戦い、もっと傲慢になるのではないだろうかと思った。なのに余命いくばくもないだろう矢作は、とてもそんな事を考えているようには思えなかった。

「矢作さん、今日もご機嫌ですね」勇人がそう言うと

「今日という日があることに満足してるだけさ。べつにたいしたことじゃない」そう言って笑っていた。

 勇人はいつも足りない事ばかり考え、満足を覚えず、もっと、もっとと欲を出している自分とは、深いところが違うのだと恥ずかしくなった。それから半年後、矢作は最後まで笑顔で、そして静かに息を引き取った。

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ーーさらにそれから五年後

「ああ、忙しい」ぶつぶつ言いながら君江は都内のレストランウェディングの花のセッティングに追われていた。

 すっきりとした青空が広がり、気持ちの良い冷たい風が吹く。咲が二十八歳になった十一月の十九日の今日、咲と勇人は結婚式を上げる。

去年の十一月十九日の月が輝く夜に、勇人はあの橋の上で咲にプロポーズをしたのだ。咲を呼び出し、指輪を渡してから、後ろに隠していた花束を咲に渡したが咲が受け取った花束に、花びらはついていなかった。

 咲は不思議に思ってぽかんとしていると、(バチン)と音と共に急にあたりが暗くなり咲はびっくりしてキョロキョロしていいたら、その瞬間橋の下の川にライトが一斉にあたり、見ると川一面にたくさんの赤いバラの花びらが浮いている。

 咲はびっくりして目を丸くしていると、勇人が「後で清掃局の人に掃除してもらわないと」と照れながら言っていた。見ると下で黒田が道路工事で使う大きいライトを操作していた。

 咲は涙で顔がぐしゃぐしゃになって、それを見た勇人は自分のハンカチで咲の顔を拭いてくれた。

夜空に浮かぶ月がバラの花びらで埋め尽された川に映り、赤く輝いていた。

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「あのう…」
受付に勇人の妹の望が座っていると、五十歳くらいの女性がバラの花束を持って立っていた。品の良いベージュのスーツを着こなしたその女性は「これを咲さんに」といってバラの花を望に渡すと、会場には入らず出口の方に歩いていってしまった。

 望は名前を聞こうと、後を追ったが、その後ろ姿は話しかけられるのを拒むようにまっすぐに向こうに歩いていく。その背中はこきざみに震えていて、女性の右手には「ハンカチ」が握りしめられていた。


 女性が歩く向こう側から子供が風船をもって母親と一緒に歩いてくる。女性と親子がすれ違った時、子供が持っていた風船が手から離れ、空に舞い上がっていった。

 女性は高く昇るその風船を目からあふれる涙を止めるように顔を上げいつまでも見つめていた。

 会場から盛り上がる拍手と笑い声が聞こえてくる。

望がバラの花束を会場に持っていくと、空になった受付に、赤いバラの花びらが数枚…落ちていた。END


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