銀座アルプス 寺田寅彦 角川ソフィア文庫

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以前から寺田寅彦の随筆を読みたいなと思っていたのだけれど、岩波文庫はどうも紙面に馴染めなくて、書店で岩波文庫の棚から寺田寅彦随筆集を抜いてはまた元に戻す、ということを繰り返していた。

寺田寅彦といえば「科学随筆」というイメージが植え付けられていて、その「科学」というワードにひるむものもあった。
これは、中谷宇吉郎や岡潔といった”理系”の作者に対しても持っているのだけれど。

紀伊国屋書店新宿本店の角川文庫棚の前の平台に積んであった『銀座アルプス』という書名が私を手招きしていた。作者は寺田寅彦。隣には同じく寅彦の『科学歳時記』も並んでいた。

帯の「一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術である」(「珈琲哲学序説」)という引用に惹かれ、裏表紙の紹介文に目を通す。
「寅彦の鳥瞰図ともいうべき作品を収録する」
寺田寅彦へのとっかかりを探していたので、これはいいかも?と思った。ただ「科学随筆の名手」による、というのは引っかかったが……。
解説が角川源義というのに「え?!」と思ったら、1951年に刊行された角川書店の単行本の文庫化だった。その角川源義の解説に目を通していったら、結びの一節が目に止まった。

寅彦には銀座に幼年時代の思い出が籠められていた。銀座印象記は日記書簡感想の類に限りなく見る。そのおりおりの銀座は早取写真の如く見事に捉えられているのは、風俗作家としての資格を充分備えていたからであろう。寅彦はそのたびに人生の諸相を見ていたのである。

「科学随筆」というワードへの不安は払拭された。

巻頭に戻って、目次をめくっていくと散見される少し謎めいた作品のタイトル。
「イタリア人」「まじょりか皿」「電車と風呂」「解かれた像」そしてやっぱり気になる「銀座アルプス」。
よし、これは買いだ!。

帰宅して、改めて今日買ってきた本を机に積んで、パラパラとページをめくってみた。
もちろんどの本も”読みたい”と思って購入している。
ただ、その”読みたい”には様々な種類の”読みたい”があって、家にもすでにそうした”読みたい”が溢れている。
そのたくさんの”読みたい”の中に混ぜてしまう前に、「今すぐ読みたい」のか「あの本の次に読みたい」のか「いつか読みたい」のか、を自分に聞いてみる儀式のようなもの、とでもいえばいいだろうか……。

他の本は、本棚のそれぞれのコーナーに収めたのだけれど、『銀座アルプス』は、行き先を決めかねて、とりあえず机の上に置いておいた。
そして、翌朝。
角川源義の解説を改めて読んでみた。

寺田寅彦といえば、物理学者で漱石門下の俊才として文筆もよくする人、というイメージが植えつけられてきた。だから、晩年まで大学の物理学研究室にこもる傍ら、文章を書き、俳句を詠んでいたのだろうと思い込んでいた。
しかし、それは「科学随筆」という言葉が、私の中で一人歩きしていたのだ、ということがわかった。

角川によれば、寺田寅彦は「終生人のために『点を貰う』努力をした人とも云える」という。

寅彦の将来を決定した二人の高等学校教授との関係が人のために「点を貰い」に行くことによって結ばれた。

二人の教授とは、物理学の田丸拓郎と夏目漱石だ。

造船学をやるつもりだった寅彦が物理学を選んだのは田丸教授の感化だったという。そして、東京大学の教室で又しても姉弟の関係が結ばれた。

そして友の「点を貰う」ために漱石のもとを訪れた寅彦は、何もいってくれない漱石の前で「仕方なく俳句問答をした」。

夏休み中手当りに俳句をつくり漱石を再び訪ねた。こうしたことから、夏目家の句会に出席し、句稿は漱石により子規の「ホトトギス」、新聞「日本」に寄せられた。

漱石没後、なんのあてもなく大学を辞め、小宮豊隆のみを頼りに読書に耽ったという。そのうちに何かに促されるように、発表する雑誌などのあてがあるわけでもないまま筆を執り始めた。書くたびに小宮に送り評を請い、身近な雑誌に載せた。その多くの斡旋の労を取ったのも小宮だったという。

日課のように銀座のデパートをアルプスに見立て、その階段を上るごとに美しい人と物に出会うことで、世の中を肌で感じ、「映画芸術研究等に従事」していたという寅彦に、さらにも興味が湧いてきた。

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