「ハーモニー」 考察・感想

読んだので、思ったことを書いていく。ちなみに他の同作者の作品は未履修。

ハーモニーの世界

人類の数が激減し、リソース意識が蔓延した社会。人類は隣人を敬い、隣人も自分達を敬うのが当然の世界。人が病気で死ぬことは無くなり、寿命でのみ死が許される世界。グロテスクな表現などは全て規制され清純な心のまま社会で生活をする。誰も傷付かず幸せな世界。

ミァハは、この世界を憎みユートピア(すばらしき新世界)を目指した。誰もが社会の規範、秩序を守り、セラピーを受け、生体情報を管理され、全人類が同じ体系を維持しているこの息苦しい世界から、誰もが同じ思考プロセスを持つ意識の調和の世界へと。

人類の生活様式、健康状態に至るまで身の回りのものは、全て調和が取れている世界に果たして「個」というものは必要なのだろうか。ミァハの目指した世界こそが理想の世界のように感じる。しかし、人間に「個」があるからこそ、突飛な事象が発生する可能性があり、それにより変革が起こったのも事実ではある。なのでどちらが正しいかを決めるのは難しい。

もしこの世界で、人類が寿命で死ぬことが無くなり不死となったとしても、それは本当に幸せなのだろうか。意識という無駄なものを消し去ったところで、生きるということの意義はなんなのだろうか。

意思、意識が無くなるとは

最終的に、意思、意識が無くなる世界になってしまうのだが、ここで少し意思、意識について考えたい。

作中でも、腕が負傷していることに意識的に気付かないことがあると言及されていることから、意識というのは身体的な信号を受けとり選択しどのような決定を下すかを決めるものであるとわかる。別の例を出してみると、汚ない場所を見て、その光景を汚ないと思うか汚ないと思わないかは意識が決めることで、汚ないと意識しなければ汚なくないと人間は意識できると考える。つまりは、意識しないという行為を人間は選択できるのである。

さて、ここで全ての事柄を意識しない、つまり無意識な状態になった場合、人間や人間社会はどうなるのだろう。作中では、意識が無くなった人間は、自明な行動を取ると言及されていた。意識がある人間とほぼ見分けが付かないとも書かれていた。自明な行動というのは、お腹がすいたからご飯を食べるだったり、食べ物が無くなったから買い物に行くなどのことを指しているのだと思う。複雑な脳内での葛藤や選択の思考プロセスが無くなり、ただ一つの自明な行動を取る。動物の本能とは少し違い、生存のためというよりは他人に対してのストレスが全くなくただ自分が今すべき行動のみをすると認識している。人間は社会的な生き物であるため互いに助け合い生きていく。他者貢献をし、自己犠牲を厭わない。これは自明な行為で人間全員の共通認識である。それにより人間は幸福になることができる。このような考えの人達しかいない世界が訪ずれるのでは無いかと思う。

人間の幸せにとって、葛藤や取捨選択のプロセスは本当に不要なのかもしれない。

その後の世界

「次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ」の者たちによって、意識の無い世界が訪ずれた。WatchMeに繋がっている全人類なので、おそらく当事者も意識の消失を受けたと思われる。意識が消失しなかった人たちは、WatchMeを付けていなかったバグダッドの人達ぐらいだろうと思われる。ケル・タマシェクの民もWatchMeを入れているため、意識というものが無くなる。他の紛争地の人達もWatchMeを入れている可能性があるため、殆どの人が意識の無い人類になるのだろう。

ここで物語冒頭で触れられていた、WatchMeは大人になると体内に入れられる、子供で入れてしまうと恒常な生体情報が取れないため入れないという記述について考える。子供にはWatchMeが入れられないため意識が無くなるということは無く、最後に劇場版ではetmlを読む学生の姿があり、少なくともミァハのような学生は存在しうる可能性がある。etml上で本作のような題材の文章を読んで、世界のあり方に疑問を持つ人が出て来ないとも言えないだろう。しかし、そういった学生がいたとしてもこの世界に耐えられず自殺をするか、自殺できずに大人になり意識の消失により社会に適応していくかどちらかであると思う。なので、社会として大した問題にはならずにやってはいけるのだろうと思う。WatchMeを入れなくても何かしら脳に細工ができる技術が発展すれば子供でも意識の消失は可能なので、そういうアプローチもあるのかもしれない。

etmlの記述者(語り部)

作中では語りの口調で章が始まる記述がされている。例えばpart: number = 01の03だ。ここでは既にミァハとの再会まで言及しており、キアンの死についても書かれている。

そして最後のエピローグでは、「我々のわたしの最後の弔い手」というワードがある。最初の時点では、トァンが記述者なのだと思っていたが、エピローグでは我々というのが全人類を指していて、トァン、ミァハ以外の誰かが記述者であると思わせられる。しかし最後のトァンの「さよなら、わたし」という言葉を考えるともう「わたし」はトァンではなく「わたし」なのだろうと思われる。つまり意識の無いトァンがこのetmlを書いたのだと思う。意識は無いが記憶は無くなるわけでは無いと思う。なのでただ淡々とetmlに記憶を焼き付けたのかもしれない。それが何のためだったのかはわからない。

終わり

感想です。

いままでオススメはされていたけど読んでいなかった本だったが、読んでみると世界観に引き込まれるSF小説だった。もっと電脳世界の話だと勝手に思っていたけれど、より身近な医学に縛られた人類の話でイメージしやすいものだった。テーマもただ医学に抗う話だと最初は思ったが人間の生き方について考えさせられる内容で心に刺さった。これが2008年に書かれたのも驚きだった。次は「虐殺器官」を読んでみようと思う。

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