弱いから強い

「なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」

聖書の言葉の大好きな一節に、私は、弱いときにこそ強い。という言葉がある。
日々、暮らしていて、自分自身がどうしようもない状況に追いやられることは少なくない。年始早々、身体を壊して寝込んでしまった。なにもできずに熱と闘う。(これこそ本当の熱闘甲子園ではないか。とか、思った)

喉も痛くて水分補給すらままならない。
そんな数日が続いた。

そんな時に、弱い時に強い。という言葉を思い出した。

おそらく、
弱いと全知全能の主の恵みを受けられるから、
ということなのだろう。

実際に、体調悪くてくたばっていると、様子を知っている人からの励ましなども届いた。何気ない一言だったかもしれないし、ろくに返信もできないけど、それらの一言一言に、どんだけの勇気に変換されたか。
実際、ごりごり過ごしている日々は、だれもいたわりの声なんかかけてこない。(本当は弱ってたりするのに)

この言葉が大好きな理由がほかにもある。聖書にはほかにもいろんなたとえ話があるけど、この矛盾しているところを包んでいることがとてもうれしい。罪深い人ほど救われている。とか。

人の営みに触れていると、自分自身を含めて多くの矛盾を抱えていて、そして矛盾を消化しきれず苦しんでいる人たちも多い。
本当は、矛盾を矛盾ごと、まるっと受け入れてしまえばよいのだ。
弱い時にこそ強いのだから。

そう。だから、みんなにも伝えたい。

だらしないといわれる人こそ、きちんとしている。
頭が悪いといわれる人こそ、理知的なのだし、
心が冷たいひとこそ、温かいのだ。


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