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家庭用ゲーム機の歴史を駆け足で振り返ってみる(前編)

WEBからは少し遠ざかったお話ですが、今回は家庭用ゲーム機の歴史を駆け足で振り返ってみようと思います。

当時を知らない世代の方もご存知かと思いますが、家庭用ゲーム機の歴史は「ファミコン」から始まったと言っても過言ではありません。

しかしながら、ファミコン以前にも家庭用ゲーム機は存在していました。

日本で最初に登場したのは、1975年でファミコンが登場する8年も前のお話です。

今回は、1975年の日本初家庭用ゲーム機に始まり、ファミコンが登場するまでを振り返ってみたいと思います。

ちなみに家庭用携帯ゲーム機は除いています。

携帯ゲーム機の歴史については、また別の機会でご紹介したいと思います。

それでは、1975年に時を戻して、日本の家庭用ゲーム機の歴史を順に振り返ってみましょう!

日本初の家庭用ゲーム機

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(Wikipediaより)

日本で最初に発売された家庭用ゲーム機は、エポック社から1975年に発表された「テレビテニス」です。

このゲーム機は、2人プレイ用でコントローラーも本体に付いており、お互いにパドルを操作して、今風に言うとエアホッケーのようなゲームになっています。

それ以外のゲームはできず、得点も画面ではなく、本体に付いており、自分でカウントしていく形になっていました。

ファミコン以前のゲーム機たち

最初にゲーム機が登場してから、ファミコンが登場するまでに、8年の月日が流れており、その間にいくつものゲーム機が生まれては消えていきました。

その中でも、ひと際輝いていたのが、やはりエポック社から発売された「カセットビジョン」でした。

任天堂の試行錯誤
実は、天下の任天堂もファミコンを発表するまでに、いくつものゲーム機を発表していました。(ここではゲームウォッチを除外しています)

 ・TV-GAME6(1977年)
 ・TV-GAME15(1977年)
 ・RACING112(1978年)
 ・ブロック崩し(1979年)
 ・ComputerTVgame(1980年)

と、毎年ハードウェアを発表していきました。

この時期、任天堂はゲーム機メーカーとしては後発組で、エポック社が先行者利益を享受していました。

しかし、ここでの試行錯誤が、のちのファミコンに繋がっていきました。

先陣の道を切り開いたエポック社
日本初のテレビゲーム機を発表したエポック社ですが、任天堂のTV-GAME6と15の前に売上で後塵を拝していました。

その後、カセット式のゲーム機を発売して、巻き返しを図りましたが、最終的にはファミコンの前に敗れ去ることになってしまいます。

 ・テレビテニス(1975年)
 ・システム10/システム10-M2(1978年)
 ・TV Baseball(1978年)
 ・TV BLOCK/TV BLOCK MB(1979年)
 ・TV VADER(1980年)
 ・カセットビジョン(1981年7月31日)
 ・カセットビジョンJr.(1983年7月19日)
 ・スーパーカセットビジョン(1984年7月17日)

ファミコン以前に、カセット交換式でゲームが遊べるという初の家庭用ゲーム機として、カセットビジョンは、累計45万台、スーパーカセットビジョンは30万台を売り上げました。

しかし、のちに登場するファミコンに性能面でもゲームソフトのラインナップの面でも遅れをとってしまい、シェアを奪われてしまいました。

任天堂vsエポック社に隠れたゲーム機たち
この時代は、任天堂vsエポック社の一騎打ちとなっていましたが、この2社以外にもゲーム機を発売していたメーカーはいくつかありました。

 ・Atari2600(1977年、アタリ)
 ・ビジコン(1978年、東芝)
 ・アルカディア(1983年、バンダイ)
 ・TVボーイ(1983年、学研)

ファミコン登場による革命

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(Wikipediaより)

それまでは、「任天堂vsエポック社」の2強対決でした。

私個人的には、任天堂は花札のイメージが強く、ゲーム機と言えば「カセットビジョン」というイメージを持っていました。

しかし、1983年7月15日に任天堂から「ファミリーコンピュータ」が発売されると状況が一変。

当時ゲームセンターで人気のあった「ドンキーコング」を筆頭に、「ドンキーコングJr.」「ポパイ」「五目ならべ連珠」「麻雀」「ベースボール」「マリオブラザーズ」などがラインナップとして名を連ね、爆発的な人気を獲得しました。

当時一番のライバルは、カセットビジョンでしたが、ファミコンは同価格帯でありながら、ゲームのクオリティが当時のアーケードと遜色なく、圧倒的な表現力で社会現象となっていきます。

翌年には、光線銃シリーズ、ファミリーベーシックなどが発表されたり、サードパーティにハドソンが参入し、「ロードランナー」を発表。

このロードランナーは、パソコンゲームとして既に人気を博していたため、このソフトの発売を機にファミコン本体はさらに売り上げを伸ばしていきます。

それに続くように、ナムコが参入し、「ギャラクシアン」「パックマン」「ゼビウス」「マッピー」と、これもゲームセンターで人気となっていたものを立て続けに発表したことによって、ファミコン人気は不動のものとなっていきました。

エポック社もスーパーカセットビジョンで対抗しますが、サードパーティの参入を認めていなかったためソフトが充実せず、ここで勝負あり、という結果となってしまいました。

この時点で、任天堂は2つの革命を起こしたと思っているのですが、先に言っておくとそれは他のメーカーが既に実施していたものなので、任天堂のオリジナルではありませんが、それを後の成功につなげたという点で革命的だったということです。

1つは、アーケードゲームのクオリティを実現したこと。

のちにアーケードゲームが飛躍的に進化を遂げることになるのですが、当時ファミコンが発表された時点では、アーケードゲームのクオリティを実現したゲーム機はありませんでした。

2つ目は、サードパーティにソフト開発を開放したことです。

元々任天堂もアーケードゲームとして、「ドンキーコング」「ドンキーコングJr.」「ポパイ」などのキラーコンテンツを持っていました。

そこで、アーケードゲームの再現性を売りにして、ファミコンを登場させたことで、他のアーケードゲームメーカーも食いついてきました。

1984年、最初に名乗りを挙げたのは、ハドソンでしたが自前でコンテンツを持っていなかったため、アメリカのブローダーバンド社の「ロードランナー」を移植し、「ナッツ&ミルク」と同時に発表しました。

このロードランナーの成功が呼び水となり、同年にナムコ、翌年にジャレコ、タイトー、コナミ、アイレム他、続々と参入してきました。

このサードパーティによるソフトの充実が、結果としてファミコンの勝利を決定づけたと思います。

次回、「家庭用ゲーム機の歴史を駆け足で振り返ってみる(後編)」で、ファミコン後の家庭用ゲーム機について振り返ってみたいと思います。

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