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小粋な「鏡越しのダンス」にほっこり 『オール・オブ・ミー 突然半身が女に!』


ジキル博士とハイド氏だって同時に登場するわけではないのに

 私が『オール・オブ・ミー 突然半身が女に!』(1984)を初めて観たのは高校生の時のことだ。筒井康隆が小説で題名を挙げていたのでその存在をもともと知ってはいたが、DVDを買ってまでして観ようと思ったのは、三谷幸喜が当時の連載エッセイで取り上げていたためである。近所のレコードショップ(という呼び名でいいのか分からないが)でDVDを取り寄せてもらい、入荷の電話を受けて受け取りに行った日のことを、まるで昨日のことのように覚えている。いまはもうそのレコードショップも閉店してしまった。

 『オール・オブ・ミー』はスティーヴ・マーティンとカール・ライナー監督の黄金コンビが贈る4本目の作品にして、生涯最後の協働作となった作品である。この映画はつくづく大した映画だと思う。巻き込む者(ボケ役)と巻き込まれる者(ツッコミ役)の珍道中を描くコメディはハリウッドでは大昔からの定番だが、本作では「巻き込む者」と「巻き込まれる者」の両者をマーティンが身一つで同時に演じているのだ。──ジキル博士とハイド氏だってそれぞれの人格は交互に現れ、同時に登場するわけではないのに。

 右半身と左半身が反発するオーバーアクションも十分に可笑しいが、眠っている左半身を右手で叩き起こす細かい演技にこそ、マーティンの芸達者ぶりは表れている。そう、いつだって「神は細部に宿る」のだ。『チャップリンの拳闘』(1915)で犬に食料を分ける時のチャーリー・チャップリンの表情、『昔みたい』(1980)でベッドの下から出てきた犬に気付いた時のチャールズ・グローディンの視線、『がんばれ!ベンチウォーマーズ』(2006)でソニー製ゲーム機の名前を言う時のデヴィッド・スペードの声色──いずれもささやかで、映画を観たひとすら記憶に残らないような瞬間だが、実はその一瞬にこそコメディ映画とコメディアンの真髄はある。


観客にとって快適なコメディの作り方を知る映画作家なのだ

 一方、この映画をマーティンの「一人ドタバタ劇」に留まらせず、きちんとマーティンとリリー・トムリンのW主演映画に仕立てているライナー監督の手腕も大したものだ(脚本は別人とはいえ)。劇中のほとんどをトムリン演じるエドウィナは実体のない「魂」として過ごしているが、音声はもとより姿を定期的に映し出すことで、ライナーは「リリー・トムリンによるエドウィナ」の存在を観客に忘れさせないようにしている。

 それでいて主人公二人の関係性を照れくさいラブストーリーに発展させず、映画をあくまでも「ロマンティックコメディ」の範疇に収めてくれているのはありがたい。ライナーは観客にとって快適なコメディの作り方を知る映画作家なのだ。「輪廻転生」という物語の設定自体はオカルトじみた奇矯なものだが、ジャズスタンダードの名曲『オール・オブ・ミー』を使ってお洒落で優しいコメディドラマとして仕上げている──その一点をもってしても、ライナーの熟練した技術と秀でた感性はうかがえる。

 主人公の二人が鏡越しにダンスを踊るラストシーンに至っては、その心温まる演出に大拍手を送らざるを得ない。そこでダンスを踊っているのは「ロジャー」と「エドウィナ」という登場人物の二人でもあるし、「スティーヴ・マーティン」と「リリー・トムリン」という俳優の二人でもある。ライナーはあえてその両面を混同させ、ハリウッドきっての「風変わりだけど品があってハートウォーミングなコメディアン」二人がアドリブで楽しく踊っているだけのようにも見せることで、ただでさえ感動的なシーンに「ほっこり感」を与えているのだ。実に小粋な演出ではないか。


おそらく地味な位置にある一本ではないかと思う。しかし……

 冒頭に記した通り、マーティンとライナー監督は4本の作品でタッグを組んだ。不条理な笑いを淡々と重ねた『天国から落ちた男』(1979)、ハードボイルド映画を継ぎはぎしたパロディ『スティーヴ・マーティンの四つ数えろ』(1982)、ギャグ盛りだくさんのB級コメディ『2つの頭脳を持つ男』(1983)、そしてこの『オール・オブ・ミー』である(いずれもコメディ映画ながら毛色の違う作品であることに驚かされる)。

 マーティンとライナーのコラボ作の中でも、あるいはマーティンの全出演作やライナーの全監督作の中でも、『オール・オブ・ミー』はおそらく地味な位置にある一本ではないかと思う。しかしこの映画は、それまで「コメディアン」としてしか見られていなかったマーティンに「俳優」の地位を築かせる基礎となった作品であり、「アメリカンコメディ界の父親」との異名さえ持つライナーの優しさ、温かさを伝える作品でもあるのだ。

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