人生は平等ではないが不幸ではない


1.あなたは文系か理系か



中学生くらいになると、なんとなく自分が文系か理系か、という自覚が芽生えてきたことを覚えている。

私は明らかな文系人間であり、理系科目はいくら学んでも興味が持てず成績も振るわず、文系科目に対しては勉強しようと意気込まなくても自然と知識が増えていったし、いくらでも高得点が取れた。

一方で、親友は理系科目なら水を得た魚のように楽しんで吸収していくのに、国語の文脈理解がどうしても出来なくて苦しんでいた。

お互いに、苦しむ気持ちは共通でも、なぜ相手が”そんな簡単な事”につまづくのか、に関しては理解出来なかった。

私にとっては文脈を読む事は造作なく出来ても、親友にとってはいくら努力してもその感覚は掴めなかった。

私にとってはいくら数式を頭に入れてもテストの応用問題になるとうまく扱えないし、親友にとってはどれだけ応用されても数式さえ当て嵌めればいいんだからこんなに楽な事はないという感覚を、私は理解できなかった。

私は中学受験をして学校に通っていたので、自分と親友は同じハードルを超えられた同じレベルの人間だと信じていた。

けれども、私と親友には明らかに、人としての違いがあった。

同じ試験をクリアして入学したはずの自分と親友なのに、これほどに能力に差があるとは。

人に与えられる力は平等ではないのだ、とこの頃には悟った。

そして、文系と理系という、大まかな分類ではあったが、人には得意不得意があって良い事を理解した。


2.平等ではないが、不幸ではない


私と親友は、平等ではない。

そう気づいたが私は不幸ではなかった。

自分は文系で、相手は理系で、そういう風に持っている能力が違う事を理解した。

だからこそ、お互いに相手の生き方を尊重できた。

親友が理系の能力を活かして医療系の資格を取得することを目指す決意をとても尊敬できた。

私が、高校受験は小論文で受験できる高校を選択した事を、私らしい、と親友は言ってくれた。

同じ教室で、同じ授業を週に6日も受けているのに、そこで実らせる力は全く異なるものになっていく。

本当に不思議だ。

同じ選択をして、同じ環境に身をおいても、それが同じ結果を産まないなんて、どうかしてるぜ。

でも、人生はそんなもんだ。

例えば、もし。

100万円支払って、結婚相談所に登録したとしよう。

一人は結婚できました。

一人は結婚できませんでした。

そんな事は普通によくある話である。

人生なんて、そんなもんなのだ。


3.背景を理解する事が幸福度を上げる


日本で日本人として生まれて生きていると、差別される事は本当にない。

気づかないうちに差別されていても、明らかな差別をされる事はない。

海外に行くと、あからさまに差別されて交渉する場面は多発する。

ファミレスみたいな飲食店で、他の人たちは2人でも広い座席に案内されるのに、私と連れは狭くて暗い端っこの座席に案内される。

飛行機に手荷物を持ち込もうとしたら、前の乗客は同じエコノミークラスで何も言われないのに、私には預けるように言う。

腹立つ事はある。
ただ、相手にも差別する理由があるのだ。

アメリカだと、日本人は少食なのと、もったいないという観念から、残さずに食べようとしてなんでもシェアしてしまい、頼む額が少ない。
さらに、それに悪びれる様子もなく、チップの支払いも悪い。
テーブル担当制の仕組みだと、どうしても売り上げが上がりにくい。

もし、そういう経験をその担当者がしているなら、どうしても明らかに小柄な私を差別したくもなる事は理解できる。

手荷物の持ち込みにしても、明らかに私は英語が話せておらず、言葉の疎通性が悪いから、もし搭乗直前に、想定以上に持ち込み数が多くて持ち込みができないとなった時に臨機応変に対応できないだろう、と予想できる。

もし直前に預け直し、となったら困るのは私である。
職員さんも、言葉の疎通性が悪い相手に対応して、フライトを遅らせるわけにもいけない。
そういう事態を想定して提案しているかもしれないが、そういう背景は当時の私には理解できなかった。

日本に生まれて、ずっと日本で暮らしていると、他の国の文化を尊重しながら生きる習慣がなく、どうしても、相手の背景を理解する経験が少なくなってしまう。

海外に行くと、よく私は相手の背景を読み違えて失敗している。

以前は、私が黄色人種だからだ、と考えていたが、改めて色々と相手の文化を学ぶと、明らかに私自身の背景の読み取り力の弱さが引き起こしていた状況だった事に気づいた。

差別されても仕方なかったわけだ。
そう思えば、何も怒りを感じなくなった。

中学生の時に、自分と親友が同じ学び舎にいても、手に入れられる能力が全く異なる事に、何も恨みがましさを感じなかった理由はここにあるのだ。

中学生ながらに、世の中には文系と理系という流れがあり、人それぞれ得意不得意があって当然なのだ、という背景を知っていたか知らないか、そこで、私の幸福度は大きな影響を受けた。

私が、自分はどう努力しても親友のように数学を楽しめない事を不幸に感じなかったのは、自分にはそっち方面の能力はなくて、自分と同じように世の半分くらいはそっち方面の能力がない事を知っていたからだ。

それを知っていたから、自分に理系の能力がない事を恨まなくて済んだわけだ。

中学生当時はこんな風に考えた事なんてなかったが、改めて今考えれば、文系理系程度のめちゃくちゃ大雑把な人間の背景を知っているだけでも、随分自分の幸福度は高まっていた事に気づけた。


4.不満が湧き起こったら、相手の背景を知る努力をする


私は結構すぐにブーたれる。

ブーたれるとは、不満を抱く、という意味だ。

不満を感じやすい私は、不満を感じてイライラするのが面倒くさくなって、不満を感じていないフリをする癖がついていた時期があった。

自分の本当の感情を無視するわけだ。

そうすると、結構楽ちんで、その瞬間はイライラしなくてすむ。

ところが、自分の本当の感情を無視し続けていると、段々と現実に不都合が起こりやすくなってくる。

一滴の水漏れを放置しておけば、いつかその場が水浸しになってしまうように。

ほんのちょっとの違和感を見逃し続けると、いつか感情が溢れて心が溺れてしまう。

現実を誰が作っているのか。

それは自分の心である。

自分の心が溺れて苦しい状態だと、現実も苦しい。

数学を学ぶ努力をしても一向に成績が上がらない。
親友は自分よりも努力をしていないのに成績は上がっていく。
羨ましい、自分は損をしている。
でも、親友にそんな気持ちを抱いてはいけない、そんな自分の気持ちはなかった事にしよう。

そこで私の思考が止まっていたら、私と親友の関係は今にまで繋がっていなかったでだろう。

文系と理系という、とんでもなく大雑把だけど、重要な人間の背景を知る事で、私は自分と親友の差異を健全に理解して、受け入れる事ができた。

そして、幸福でいられた。

もし、不満を感じる状況が目の前にやってきたら。

それを無視しなくてもいい。

不満を感じる感情を素直に受け入れて良いのだ。

そして同時に、その状況の背景を知るようにしてみたら良い。

相手が置かれている状況、文化の違い。
背景を知れば、自分に湧き起こった不満の理由を解明できる。

そして、背景を知れば、その不満を抱き続けていかなくてもよい事にも気づける。

私は、おそらくこれからも不満から逃れる事はできない。

私のように、こだわりが強くて、神経質で、心配性で、変化に過敏な人間は、これからも不満たらたらで生きていくのだろう。

けれども、その不満とずっと付き合わなくてもいいのだ。

不満を健全に分析して遊ぶ方法を私は知っている。

そう思うだけで、私は人生を面白がれる。

私は、幸福になれる。





















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