アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(8/12)

(8)魔術としてのWatchMe

このゲームとしての「健康」という見立ては、ミァハが問うた「身体の主権」の問題をより詳細に書き直すことをも可能にします。

「身体の主権」をたとえば「我々の身体は誰のものか?」という問いに還元するとき、主に問われているのは「身体の所有権」です。身体が私のものである一方、社会のものでもありうる、という可能性が、臓器移植の社会制度化を可能にし、「公共的身体」のアイデアを可能にします。しかし、これは「身体の主権」の一論点にすぎません。たしかにゲームプレイにおいて、キャラクターが別のプレイヤーに操作されない、という排他性は重要かもしれませんが、これはおそらく必要条件でも十分条件でもありません。

むしろゲームプレイの主導権を握るために重要なのは、キャラクターとしての病める身体がもつステータス、あるいはそれが獲得したスコアといった情報に、プレイヤーがアクセスできるかどうか、という前提条件です。つまり、「身体へのアクセス性」もまた「身体の主権」に含まれる概念なのです。

加えて、アクセスできた情報をもとに任意のボタンを押せることはプレイの大前提となりますし、それによってキャラクターがある程度思い通りに動くことも重要です。これを新たに「身体の操作性」と呼ぶことにしましょう。

アクセス性、操作性、これら2つが揃って初めて、我々は身体の主権を取り戻すことになります。そしてこれらが完璧に確保されているとき、予測モデルは高い確度をもって成立します。解離した病める身体は自らの身体のうちにきちんと囲い込まれ、ぼやけていた身体の輪郭はふたたび明瞭な線を結びます。そう、身体の主権を取り戻すこととは、二つの身体を再統合することにほかなりません。

ここまでくればもうお分かりのことと思いますが、リブレのような恒常性監視デバイスがもたらすアクセス性改善の本質的な価値は、このゲーム的に解離した身体を再統合し、再魔術化した「健康」を脱魔術化しうることにあります。

身体へのアクセスを封じられた盲目のプレイヤーは、医者であれ占い婆であれネットの攻略掲示板であれ、なんらかの道案内を必要とします。しかし身体へのアクセス性が完全なかたちで確保されたとき、医者が統計学的に得られたエビデンスをもとに、あるいは占い師が神託をもとに提供する一般論的な「予測モデル」は究極的には意味を失い、病院あるいは占い小屋といった場所の特権性は解体されることになります。自分がなにを食べると血糖値が上がるかは、占い師に聞くよりも自分で試した方が早くて確実だからです。

かくして「食べる」と「健康」をひとつの予測モデルのうちに囲い込んだプレイヤーにとって、もはや「健康」は魔術でもゲームでもなく、自己の身体に起こる事象の一部にすぎません。こうしてキャラクターの身体は、はじめてプレイヤーの身体と重なり合います。これが「身体の主権」を回復することでなくていったいなんでしょうか。

ところが、リブレの究極系であるはずの「WatchMe」は、市民にとってそのようには機能していませんでした。市民の身体へのアクセス性とその操作性を、生府がすべて押さえていたからです。

WatchMeをインストールした市民に、実際の血糖値の上がりや身体の変化それ自体が詳細に知らされることはありません。代わりに与えられるのは、「社会評価点」という極めて漠然とした、魔術的というほかないフィードバックにすぎません。ここでWatchMeは、権力との結託によって絶対的な正当性を担保された、いわば特権的な占い師として信仰の対象となります。

そしてまた、彼等は事実上押すべきボタンを選ぶことすらできません。「メディケア」から吐き出された薬を飲まなければ、あるいは「ライフプランナー」の助言を無視して好きなものを食べていれば、すぐさまそれを戒めるアラートが飛んでくるからです。

つまり、御冷ミァハの誤りはここにあります。真にまずいのは、WatchMeによって常時監視され数値化されることでも、それによって資源として健康に管理されていることそれ自体でもなく、生体情報から服薬・生活管理の最適解を導き出すまでのプロセスがブラックボックス化されていること、およびそれを実行することがほとんど決定事項となっていることにこそあります。

ここではテクノロジーの進歩が「健康」の脱魔術化には寄与せず、むしろ高度に魔術化された社会を作り上げるために利用されています。もはやこれは、占いと祈祷が病を治すと信じさせられていたころの社会と変わりません。

ミァハは敵の姿を見誤っていたように思われます。ミァハが相手にしていたのは、本質的には未来的なテクノロジーのおばけではなく、古代的な格好をした呪術の王権だったということです。そして我々もまた、いまや『ハーモニー』に対する見方を180度転回せざるをえません。『ハーモニー』とは医療のありうる未来についての小説ではなく、脱魔術化以前の医療、つまり医療の過去についての小説だったのです。

WatchMeの機能それ自体は、むしろ逆手にとって利用できるはずの要素であり、そうすることが不可能なゲームを可能にする唯一の道だったように思われます。
ミァハは「ハーモニー・プログラム」実行のためのテロの過程で、一部市民のWatchMeをハックしその意志を乗っ取っています。市民のあいだで死への欲動が高まるよう調整し、集団自死騒ぎを起こしておいて、パニックに陥る市民に向けて「皆さんはすでにわたしたちの人質なのです」と犯行声明を出す彼女の手つきは、生体情報を掌握することで市民を人質化した生府の手つきと瓜二つにも見えます。

しかしここまでの議論を踏まえれば、生命主義社会にとって真に革命的なテロとは、WatchMeになりかわり新たな権力となること、ではありません。むしろハックしたWatchMeの機能を解放し、権力が独占していたその情報の恩恵を、市民の手に取り戻すことだったはずです。かくして身体の主権を回復した市民は、各自ほどほどのところで「健康」をプレイするようになる…めでたし、めでたし。

(続きます)

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