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2019年受難週霊想:みことばとともに十字架の足跡を

今年も受難週の霊想を作りました。お用いいただけると感謝です。

14(日)頭をあげよ
「門よおまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。栄光の王が入って来られる。
栄光の王とはだれか。強く力ある主。戦いに力ある主。」(詩篇24:7~8)
 イエスさま、あなたは混沌としたエルサレムに入ってこられました。私たちの一週間にあなたをお迎えします。そこは混沌とした世界です。
 しかし、私たちは喜んであなたをお迎えします。「主よ、救ってください」と叫びます。年度が替わり、寒い日もあり風の強い日もあり、家族には環境の変わった者もいます。
 ついつい疲れを覚え、心も姿勢も下を向き、ため息をつくような私たちに、「おまえたちの頭を上げよ。栄光の王が入ってこられる」と天からの声を聞かせてください。
 そのようにしてあなたを迎えることに、まず大きな祝福があることを。戦いに力ある主をお迎えすることが、私たちを強くすることを教えてください。主よ。あなたをお迎えします。頭を上げます。あなたのおいでにふさわしく」。

15(月)主がお入り用なのです
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
 もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」(マルコ11:2~3)

 イエスさま、あなたはロバの子を用いて、エルサレムに入ってゆかれました。ロバの主人も、「主がお入り用なのです」との呼びかけに素直に応えて、差し出しました。そのようにして、ロバの子は栄光の主をお乗せする光栄にあずかりました。
 主よ、あなたはロバの子を用いて栄光を示すことのできる方です。だとしたら、どうか私にも声をかけてください「主がお入り用なのです」と。
 私も声をかけていただきたいのです。用いていただきたいのです。あなたの栄光のためにお役に立ちたいです。
 そして、もしそのような声をかけられたときに、自分の都合を優先せずに、素直に、差し出せる者となることができますように。素直な信仰を与えてください。

16(火)天地は消え去る
「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マルコ13:31)
 主よ、私は自分の人生に悪循環を感じることがしばしばです。汗水垂らして、この世の幸せのために労苦し、何かを成し遂げればつかの間の満足を得、何も成し遂げられなければ、失望し。それでも立ち上がってまた同じことに挑んでいく自分。しかし主よ、そんな私たちも心の奥ではわかっています。地上におけるすべてのことは過ぎ去ることを。
 はかない人生をどのように楽しむか、安定させたものにするか、ではななく。過ぎ去る人生の中で、決して消え去ることのないあなたの言葉をつかんで、あなたの言葉を信頼し、あなたの言葉を土台として、それを実行することができますように。そのとき、過ぎ去る人生が「より確かなもの」となることを信じています。過ぎ去る人生で苦労したことが、永遠の輝きを持つもことを信じています。
「私たちの神主の慈愛が私たちの上にありますように。私たちのために私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか私たちの手のわざを確かなものにしてください。」(詩篇90:17)


17(水)闇にとどまらない
「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることないようにするためです」(ヨハネ12:46)
 イエスさま、私に手を伸ばして、私を闇から引き上げてください。時に頑固な私たちは、あなたの手を払いのけてしまいます。
 自分の不安・恐れ・怒り・焦り・苦悩の中から一歩も出ないと決め込み、闇の中にとどまります。
 そんな私たちを助けてください。光として来てくださった主よ、私を引き上げ、私の背中を押し、私の手を握って導いてください。
 この世界がどんなに苦しみや恐れに満ちていたとしても、私がどんなに弱い、乏しい人間であったとしても、闇の中にとどまることのないようにきてくださったあなたを見上げて、差しのばされた手を信仰をもってつかむことができますように、してください。
 そして、一歩でもこの心を引き出されたなら、私の中になされたあなたの御業を喜ぶことができますように。

18(木)わたしが洗います
「それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い……」「ペテロはイエスに言った。『決して私の足を洗わないでください。イエスは答えられた。『わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたし関係ないことになります』」(ヨハネ13:5, 8)
 イエスさま、あなたは誰も洗う様子を見せない弟子たちを前に、自ら手ぬぐいを取って、弟子たちの足をあらってくださいました。でも、それはしもべの姿を取る模範だけでなく、救い主として、あなたが十字架の血潮をもって私たちの罪と汚れを洗ってくださることのしるしでした。
 だとして、「洗わないでください」(8節)ではなく、「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」(9節)と遠慮なく、あなたの御前に汚れたところを差し出しすことができますように。恥も外聞もなく、洗ってくださいと、あなたにお願いする者とさせてください。
 私たちは愚かなことに、すぐに足をひっこめます。愚かなことに、いちばん汚れたところをあなたの御前に出しません。
 身をかがめて、ひざまずいて、「さあ、あなたの足を洗おう。出してごらん」とあなたがおっしゃるのでしたら、「はい、よろしくお願いします」と素直に洗っていただく者とさせてください。


19(金)彼らをおゆるしください
「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは、何をしているのか自分でわからないからです」(ルカ23:34)
 主よ、私はゆるしていただきました。あなたの十字架と、あなたの祈りによって。
 そして、今日もまた、私のために祈ってください。今日もまた、愚かな私をゆるしてください。何か完璧に成し遂げたかのようであっても、何もできていない自分。所詮、何をしているのかわかっていない自分を悟らせてください。そのことによって、あなたの祈りの大きさを知ることができますように。

20(土)わたしが石を転がす 
 彼女たちは、「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。(マルコ16:3)
 主よ、転がしてください、私の日常をふさいでいる石を。私の心をふさいでいる、大きな石を。
 よみがえりの朝、女たちにはできませんでした。あなたが天の使いを送り、その御力を発揮してくださらなければ、石はころがりませんでした。
 主よ、同じように、あなたがた助けてくださらなければ、どうしようも動かない石が、私の心に、日常に立ちはだかっています。
 お願いです、主よ。あなたにはできるのですから。その期待をもって明日のイースターの礼拝にでかけてゆきます。もし行くことができなくても、同じ期待をもって日曜日を迎えます。復活の恵みを私にも与えてください。

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