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覆いの中の社会/中井久夫「精神科治療の覚書」より

中井久夫の著書に、「精神科治療の覚書」というものがある。その冒頭に、「精神病院とダムの話」という項があり、これがとても興味深い。簡潔に言うと、精神科医療(病院)と地域社会との共生について投げかけたものである。精神科医療において、今なお大きな課題とは社会的入院患者の問題である。社会的入院とは退院可能な状態であるにも関わらず、本人の受け入れ先や保護者がいないために長期的入院をせざるを得ない状態のことをいう。これは国際的にみても日本における精神科医療の悪しき特色であるといわれて久しい。中井は社会的入院患者を「沈殿患者」と呼んでいる。この言葉自体は中井オリジナルのものではないが、精神科治療の現場においては珍しい言葉ではないそうだ。中井はこの「沈殿」という現象について焦点を当てていく。その中で、精神科医療の現場をダム・モデルに準えて以下のように書く。


「考えれば考えるほど精神病院はダムに似ている。上流から患者が流れ込む。どんな患者が流れ込むかは、その地域(より正確には病院の診療圏(catchment area)によって違うだろう。患者はある期間病院に滞在して退院してゆく。いちおう社会復帰という。これを決定する因子はいろいろあるだろう。社会の受け入れ体制は、ダムがある単位期間にどういう質の、そしてどれだけの量の水の放流が許されるかに似ている。これは下流のコミュニティーの状態によって決まるだろう。退院者を受け入れる物質的、機構的、心理的準備によっても決まるだろう」


また、ダムにおける水質やそれを迂回する水路といった構造と、病院およびそれらを取り巻く環境についても相似性があると中井は指摘する。


「ダムに入る水の質をみて敬遠し、ダムを迂回する水路に流すようなこともあるかもしれない。これは、患者を病院側が選ぶことに相当するだろう。実際、そういうことは陰に陽に行われているだろう。優良病院ほどこの選択を行う自由が大きそうである。不備な病院ほど、水質を選べない。保健所や警察その他を経由して送られてくる患者を拒めるのは、監査されても良いと自信のある病院、これら関係官庁から治療の実績を認められ、信用されていない病院である。逆に、どこか自信のない病院は患者の質を選べない」


こうして中井の視点に立って、この「ダム」というものを見ていくと、ダムは確かに社会の中にあって、なんらかの社会的機能を有しているとは言えそうである(当事者にとって益であるかは置いておいて)。具体的にその機能は直接的には精神疾患の治療であり、他方では患者を収容する空間的な存在でもある。だが逆説的にはそこにダム(的機能を有するから)があるが故に、地域社会を悪い意味で特色づけるような方向性を持つ。分かりやすくいえば、病院の収容施設としての側面と機能は、そこに患者を「閉じ込めて」いればよく、地域社会の側は彼らに対する社会的支援の受け皿や機能を持つ必要はなくなっていく。そして、中井も指摘しているが、病院経営の観点からいっても病床が一定数以上埋まらなければ成り立たない構造を持っていた戦後日本の精神科医療は、誕生のそのときから長期入院を前提としていた。結果として社会的入院の増加は宿命づけられていたといってよい。
だが、そこには最も大事な視点が欠落している。それは患者自身の権利と利益についてだ。医療は直接的には精神疾患の治療を担う。人には治療を「受ける権利」、あるいは「受けない権利」というものがある。患者は患者である前に、一つの独立した人格を持った生活者としての側面がある。この観点に立ちながら、医療という専門的機能を持った病院との関係、地域社会との関係を多角的に捉える必要がある。中井は限定された医療ありきの捉え方ではなく、多角的視点に立っていたことはダム・モデルへの指摘においてもよくわかる。
ここまでは精神科医療そのものに対する指摘であったが、もう少し踏み込むならば、精神科医療をそうした在り方にしているまた別の主体があるのではないか?という疑問である。その一つこそが地域社会ではないか。病院というものは単独に存在しているものではない。社会という構造の中に存在をしているものであり、当然そこに存在するあらゆる主体というものは、社会というより大きな主体の影響から免れることはできない。そして、社会を構築しているさまざまなそうした小さな主体の影響というものからも社会それ自体が免れることはできない。強い相互関係で成り立っているといえる。中井の指摘した問題とは、個人や一機関の特殊な問題というものではなく、ミクロ-マクロレベルで相互に絡み合った構造的問題であるといえる。
このことを念頭に、「精神科治療の覚書」をさらに読み解いていきたい。
患者の生活者としての側面を強調するならば、中井は以下のように書く。


「……病気が治ればもっと過酷な運命が待っている人はたくさんいる。そういう人が積極的に治ろうという気を起こさないからといって責めることはできない。いわゆる『二次的疾病利得』と真向から勝って勝ち味はない。それは人間の本性そのものと戦うことであろう。病気は不幸だが、世の中には病気以上の不幸も多いことを医者は忘れがちである」


特に「病気は不幸だが……」の箇所は重要である。病院にある一種の閉鎖的な所以とは、この疾病「にしか」目の行かないところにあるのではないか。当然病院の機能とは医療の提供と疾病の完治にある。だが、患者の「患者ではない」それ以外の側面にも焦点を当てるならば、疾病は疾病以上の意味合いを持つ。それは必ずしも不幸を伴った現象としてあるのみではない。むしろ、それによって利得を得るというパラドキシカルな心理をも生む広がりを持つ。こうした視点に立って、医療や医者というものは存在するべきであると、中井は言外に述べていると見るべきではないだろうか。
また中井は精神疾患を持った人が社会復帰と再参加をする上において重要なものとして、「心のうぶ毛」なるものを述べる。これが非常に興味深いため、中井の言を以下に引用する。


「……彼らが『心のうぶ毛』とでもいうべきものを磨り切らせないことが大事なのだ。彼らの繊細さ、やさしさ、人への敏感さを。なぜなら、この『心のうぶ毛』のようなものこそ、彼らの社会復帰というべきか、加入というべきか、におけるもっとも基礎的な資本であると私は思うからである。彼らが社会に生きる上でおおむね不器用な人であるとかりにいわれても、彼らの『心のうぶ毛』とでもいうべきもの、私にはそれ以上うまく表現できないが、は必ず世に棲む上で、共感し人を引きつける力をもつものであろう。それを世間的な意味での立ち廻り上手よりも高く評価する人間は、社会の側に必ずいると私は思う」


「心のうぶ毛」とは中井自身の言葉であり、あえて既存の言葉に翻訳を試みるなら、心の機微とでもいうような、微妙な揺れ動く内的な現象のことを指すのではないだろうか?
そして、この揺れ動き(精神的、肉体的)こそが精神疾患を持つ(そうした人たちは何らかの脆弱性あるいは、特定の精神疾患に対する親和性を持つとされる)人々が社会的存在として再び入っていくときに必要なものである。
それはなぜか?
中井の視点に立つならば、この「心のうぶ毛」というものは、誰しもが持ちうる「生きる力」とでもいうべきものなのかもしれない。人への優しさ、繊細さ、敏感さというものは換言すれば私たちの獲得してきた対人認知あるいは社会的認知のそれである。他者への認知を通して、私たちは己の輪郭を知っていく。自己の認知の一体性と一貫性を喪ったときに、なんらかの精神症状はその表面に現れてくる。
これと「心のうぶ毛」とを相対的に見つめるならば、それは繊細で、かつ「剛毛」でないところにポイントがある。こうもいえないだろうか。人の心は元から「剛毛」の馴染まない場所であり、うぶ毛であるからこそ、そこに存在ができる。だがうぶ毛であるからこそ、簡単に蹴散らされ、むしられてしまう部分もある。それをなるべく散らさぬようにし、育て、守っていくこと。これはひいては精神疾患を持った人のみではなく、社会の中で生きる全ての人にとって必要な一種の社会的癒しなのではないか?
中井はそこまで書いてはいないが、彼の言葉の範囲は非常に広範囲なところへと向けられているのが常であり、「心のうぶ毛」に関しても同様に見るべきであると私は思う。
彼の思想には、どこか慈悲とでもいうような、重い思想的な論拠を伴った「優しさ」というものがある。その重層的な存在感というものは、彼の膨大な臨床経験と教養とに裏打ちされているわけだが、それは「冷たさ」に堕してしまう可能性もあるが、中井はそれを人への温かな眼差しというものへと転換している。この眼差しと優しさというものが、中井の思想全体を包含する一つの特色となっている。そうであるから中井の言葉というものは、直接的には精神科医療へと向けられているものの、そこより更に広がりを持った人々と空間とを照らしていく力を持っているのではないだろうか?

附論:視点を現代社会へと移すと現代においてはその「優しさ」の乏しい時代であるともいえる。最近ではメリトクラシーの功罪が叫ばれているが、合理性にしろ、メリトクラシーにしろ、人を分解可能な部品として扱う点では同じであると思う。それらに通底するのは、知的理解の過程において、白黒とつけられないものを切り捨て、非科学的なものや論理の伴わないものを排除する姿勢である。
人は元来、理不尽で不条理な存在である。近代化はそれらを排除し、歴史の表舞台からいかに消し去るかを模索した営みであったともいえる。そして、それらは一応成功したように見えた。合理的存在として人間は生きるはずであったが、皮肉なことに社会の近代化に従って不気味な現象が再び学問の俎上に昇ってきたのだ。それこそがフロイトを祖とする精神分析であり、ヒステリーや神経症といった現象であり、心理学という学問である。社会の合理化の歪みは必ず存在する。それらは私たちの内部に起こったものであった。精神疾患の認知は、社会の高度化と共に歩んできたといってもよい。そして、歴史的に見るならば近代以前の社会においては病としての認知よりも、神に近しい者の現象として、独特な「社会的包含」が精神障害者に対して行われていたことは事実である。
当然、科学的医学的に知見からは一笑に付されるものではあるが、「人間は元来、理不尽で不条理な存在」であることを考えるならば、心のありようの一側面としての精神疾患への歴史的扱いというものは興味深い。
そして、精神疾患に見られる「奇異な振る舞い」というものは、私たちの社会の歪みが投射された内的現象であることも、ここでは指摘しておきたい。直接的には個人内の病理的現象であるが、ではなにがそのような形を取らせるのか?との視点が、こと精神疾患の治療において重要である。その次元と意味において、精神症状とは社会それ自体を雄弁に語るものである。精神疾患の増加とは、それ自体が現代という時代への一つの投射であるのだ。再び中井に戻るならば、その理由の一つとしては合理的存在としての人間理解の在り方が限界を迎えている、ということと、従来の合理的人間論と個人主義という単位を乗り越える新たな視点とは、一見科学的、概念的な定義の困難な人間のグレーゾーンとでもいうべき、理不尽で不条理な側面を捉え直すという地道な作業によって得られるのではないかということである。

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