試論:余白、中間領域としての「世」
第1回の人文サロンβを終えた。参考図書は中井久夫の「世に棲む患者」「精神科医がものを書くとき」、木村敏「あいだと生命」。今回は中井久夫を中心に話すことができた。非常に示唆に富む内容で、知的刺激に溢れた時間となった。冒頭、まず「世に棲む」ということは一体どういうことなのだろう?という点に話しが及んだ。
よくよく考えるとこれは奇妙な言葉であり、「棲む」というものも、なぜ「住む」ではないのか?だがなんといっても奇妙なのは、「世」という言葉である。なぜ、地域でもなく社会でもなく、「世」であるのだろうか?
私は直感的に、ソーシャルワークの理論におけるミクロ-メゾ-マクロシステムを思い浮かべた。個人領域のミクロ、社会/国家領域のマクロの中間に位置するメゾ的領域なのではないかと考えた。まず「世」という文字についてであるが、この漢字は会意文字であり、会意文字とは既存の文字を組み合わせて作られたものを指し、「世」という文字の場合は十を3つ重ねて作られたものである。意味としては、「三十年/人の一生涯/父の跡を継いで子に継ぐまでの三十年/その時代/一王朝の続く間/過去現在未来」などである。こうして見ると、「世」という言葉自体の意味には、「連続性と時間的堆積」が共通して含まれていることが分かる。この時間的堆積とその連続性とがもたらすものとしての領域は一体何を意味するのだろうか。
少しここで視点を変えて、精神疾患そのものについて社会的に考察するならば、精神疾患とは本当に個人の内面における現象として捉えるべきなのか、という本質的な問題がある。問題のある個人というものを生み出している、あるいは内包している社会の側、その構造にこそ真の意味での「病み」というものが存在しているのではないだろうか?
精神疾患を抱える人というものは、社会の中のそういったものが転写されたものであり、精神疾患とは社会における転写現象であると捉えたとき、では社会それ自体はどのような存在であるのだろうか、との問いかけが成り立つ。人は個人として存在をしているが、社会的生物であり、独りでは生きていけないように進化をした。だが、人は単独で社会的存在として成っていけるようにはなっていない。そのための準備が必要であり、そのための空間と社会関係資本が必要である。
だがこの社会というものは、人から社会的存在になるための中間領域あるいは個人でもなく、社会的存在でもない、なくてもよい、赦される領域というものの極めて希薄なものとして存在をしている。この領域をして、中井は「世」と呼び、そこに「棲む」のは患者とされる人だけではなく、健常の側とされる私をも含む。
この視点の転換と広がりは凄まじいものがある。
「世」という領域は個人が社会的存在となる前の段階の「赦される」領域、ある種のmoratoriumの領域として機能するのだが、他方では余白としての、心理的安全性の補償された領域としても存在する。前者は社会的機能として働き、後者は抽象的な心的領域として働く。この余白の中に、個人の物語(ナラティヴ)も存在をし、それはいかなるものであろうと赦され、許容をされる。そして、病める人こそこのような領域で癒される必要がある。
それこそが余裕であり、豊かさでもあるのではないか。現代という社会構造の中にこのような領域というものはあるのだろうか?
やや逸れるが、「世」には「この世」と「あの世」もあり、生の領域としての「今ここ」とは当然「この世」であるが、目に見えない領域としては全てが「あの世」となる。スピリチュアリティな側面が特に近代ホスピスの場面で注目されるようになって久しいが、この視点は社会理論においても適用されるべきものであると思う。人は生きると同時に生かされる存在でもあり、人の社会的存在性というものは、この他のものからの「生かされる」という点に依拠してもいる。それは実体の伴ったものに限るわけではない。余白としての中間領域について語るとき、そこにはこのようなスピリチュアリティをも含むものであると、私は考えたい。そして、現代における精神疾患の多様な広がりとは、人の持つ自己防衛本能の悲劇的な表現方法の一つであり、もう一つの極とは犯罪であるとも思う。病いと犯罪とは異なるものであるが、その背景にあるものは社会病理の転写現象であり、そのような意味で両者というものは非常に近しいところにその極があると思う。器としての社会そのものが病む、病んでいるということは、そこに棲む人々というものも当然健全ではあり得ない。ゆえに、個人の問題とは社会の問題であるということなのだ。
現代特有の空虚感や虚無感、実感の乏しさというものは何によって癒され、救われるのであろうか。このことはとても大きなテーマとして存在をしている。私は中間領域としての「世」というものに、一つの可能性を感じている。それは曖昧な、恐らく言葉で定義づけることの難しい領域でもある。
それは個人という自己にとって卑近な領域でもなく、社会や国家といった匿名性の高い領域でもなく、その中間にある余白としての領域に人間性の多様な在り方というものが存在できるのではないだろうか。
それは「私」も認められて「あなた」も認められる領域である。そして、「それら」として捉えるならば、「私」と「あなた」とは「我々」として存在することができる。個人でもなく、匿名同士の解体可能な存在としてでもない、有機的な存在になることができる。
その連帯の集積こそが人間学的な意味を持つ社会というものになるのだろう。