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試論:「精神疾患とはアンチテーゼである」

中井久夫の「精神科治療の覚書」をテキストに、第2回人文サロンβを行った。今回は「精神科治療の覚書」の中の冒頭、「精神病院とダムの話し」を扱い、意見を共有することができた。主な論点は大きく以下の3点といえる。

①中井は精神科病院を患者を堰き止め、収容する機能を持つ「ダム」と形容しているが、この点をどのように捉えるか?ネガティヴな意味での「ダム」にとどまらない意味が中井の「ダム・モデル」には含まれるのではないか?

②そもそも精神疾患という現象をどのように捉えるのか?精神疾患を個人内の現象と捉えるのか、社会環境の病理性が精神疾患という現象で個人内に現れたのか?

③社会そのものにある病理性の本質とはなにか?その一つに「無関心」というものがあるように思えるが?


以下順を追って考えていきたい。
まず、①について。中井の原文を引く。

「考えれば考えるほど精神病院はダムに似ている。上流から患者が流れ込む。どんな患者が流れ込むかは、その地域(より正確には病院の診療圏(catchment area)によって違うだろう。患者はある期間病院に滞在して退院してゆく。いちおう社会復帰という。これを決定する因子はいろいろあるだろう。社会の受け入れ体制は、ダムがある単位期間にどういう質の、そしてどれだけの量の水の放流が許されるかに似ている。これは下流のコミュニティーの状態によって決まるだろう。退院者を受け入れる物質的、機構的、心理的準備によっても決まるだろう」

ここで「ダム」という言葉の持つ一次的意味とは、収容と管理というもので、ここではネガティヴな響きを持ちうる。ただ、中井の視野は精神科病院単独にのみ向けられたものでないことは明白だ。社会環境を意識した上での「ダム・モデル」であることを念頭におくならば、「ダムが存在する社会それ自体とはどのようなものなのか」という問いが成立する。「ダム」をネガティヴなものであると定義するならば、そういったものを内包する社会そのものの意味というものも同時に問われなければならない。「ダム」に持たせる機能を決定する要因は社会の側に大きなものを負っているのではないか?中井の「ダム・モデル」の本質はここにあると思う。そういったパラダイムの中でダムとしての機能を持つ/負わされる精神科医療というものを眺めてみると、それらは転換すればポジティヴなものにも可能であることが分かる。社会的視点に立つならば、精神科医療の抱える問題は社会それ自身が背負っている課題である。そのことを無視して精神科医療の抱える問題の本質を捉えることはできない。
そう考えると、精神疾患という現象は一つの社会的課題としての様相を帯びてくる。そこで②の論点が出てくるのだが、精神疾患という現象は個人内の特殊な現象と言い切ることはできるのだろうか?という素朴な疑問である。個人は単独では存在しえない。誕生から成長する過程において、必ず社会集団の中において育まれる。人はその過程で病んでいくわけだが、このことをどのように捉えることができるだろう。端的に言って、精神疾患とは、社会の中にある病理性が個人内に転写されたときに現れる一つの現象なのではないだろうか。ゆえに、病んでいるのは個人ではなく、社会の方であり、その次元でいうならば、深刻に病んでいるのは社会それ自体であるといえる。
現代は個人主義の時代であり、それは自己責任論と一体化した、独特の息苦しさを持って私たちはそれらを「無意識的に」抱え込んでいる。多くの人々はそうした価値観を内面化し、大きな疑問を抱くことなく生活をしている。あるいは、そのように「生き切る」ことのできる人が、社会人としてこの社会の中で存在することができる。だがそこからこぼれ落ちていく、あるいは適応できない人たちも居て、彼らは疾患の名の下に管理をされていく。その意味で医学モデルを基本とした疾病観は非常に有用で便利なものである。個人の問題はあくまで個人の問題として、そこから抜け出ることは決してない。そこに一つの病理性を感じずにはいられない。人は単独では生き続けることができない。家族を最初の単位として、様々な次元において集団の中で生かされてこそ存在する。では、その集団それ自体に問題というものはないのだろうか?そのことがあまりにも意識をされていないのではないかと思うのだ。
この考えの前提には、社会それ自身の病理性という意識がある。そして、その一つに「無関心」というものがあるのではないか?
これには3つの段階があって、まず自己自身への無関心、他者への無関心、社会(あるいは自分の所属している世界への)への無関心というものがある。言い換えるならば、それは緩慢なる思考停止とも言えるかもしれない。この現象を読み解くためには、近代社会の産物である個人主義というものを考えなければならない。より厳密には、この日本における個人主義というものについてである。個人的に、日本における個人主義は独特な発展を遂げていると思うのだが、それは極端な自己責任論と昨今話題のメリトクラシーの独自の相互作用があるように思えてならない。個人というが、これは欧米で語られるような一つの独立した存在を指すわけではない。あくまで集団内における矛盾するようだが、相対的な個人主義であり、集団内のセオリーを侵さない限りにおいて許容される独特な範囲を持つものである。ただ個人という単位とその尊重は、それらに制限をかける側である集団という構造の中においても「尊いもの」とされてはいる。ゆえに、個人への介入は必要最低限なものにするべき、との暗黙のルールが存在する。ここに自己責任論がどのように介在するかというと、基本的に集団(社会と言い換えてもいいが)は個人へ介入することに積極的ではないが、介入すべき現象も当然起こりうる。だがそうしたものは大抵厄介で、集団それ自体の体力を消耗し、時には変革をも迫る。そうした時に、個人の能力を問題とし、その実力によってなされる行動と結果に責任を負わせることによって、暗に集団内の秩序を保つ効用を自己責任論は持っている。個人単位の問題論とは、その視野の狭さにおいて、集団の問題として広がっていくことはない。自己責任論は、近代以降の個人という「尊い」基礎単位に起因するがゆえに、それは容易な反論が可能ではない、むしろ合理的にすら「思えてくる」土壌を持っている。そして、それはどうやら私たちの社会に強力に根付いているようだ。
それは個人を単位とした、失敗や逸脱を暗黙理に許容しない風土である。そして、そこからこぼれ落ちたものは、「異常なもの」として管理され、隔離される。そして、大多数の人々は根本的な無関心のフィルターを通してそれらを眺め、大半においてそれは「自分とは関係のないこと」として処理されていく。彼らは自分自身に問うことはしない。まさに、自らの根本的無関心によって、「異常なもの」が存在させられているということにおそらく生涯気がつくことはない。そうした社会の持つものとは一体なんであろうか?
このことを考えると慄然とする。
根本的な無関心に覆われた社会というものは、究極的な個人主義の社会でもある。そこでは、社会や他者からの隔離と同時に、自身の奥深い内的な存在というものからをも隔離されている。ゆえに、自己自身に対しても、無関心でありうる。自己の深い内面に向き合えない、関心の持ち得ない存在が他者や社会にその視点を広げることは不可能である。ここに、この社会の病理性が現れていると思う。そして、その無関心さというものは直接的に誰かを痛みつけるものではない。だが「人の痛み」への無関心という現象を通して、間接的な他者への攻撃性を持つ。そして、自分自身(それはごく浅い領域での自己である)と親和性を持たない存在への不寛容を引き出していく。こうした価値を内面化した社会は果たして健全と言えるのだろうか?
私は精神疾患とはこうした病理性の転写であると思えてならない。真に病んでいるのは社会であって、個人ではない。そして、未だ社会はこのことについて個人を単位とした問題論に固執しているように思えてならない。これは単純な善悪や正義論、二元論に基づくものではない。よりよく人々が生きていく、あるいはそうしたことが可能になる関係性や社会環境とはなんであるのかを素朴に問う一歩なのである。
物質的には豊かになった「はず」の日本社会において、なにが満たされていないのであろうか。そして、経済的豊かさというものもこの20年において翳りが鮮明になっている時代において、この問いは極めて重大なものであると思う。

私たちは本当に「豊か」になれたのであろうか?
なにが満たされて、あるいは満たそうとし、それは私たちを癒し、幸福にしたのであろうか?

私は物質的豊かさというものはそれと引き換えに「人間性の喪失」というものをもたらしたと思う。だから昔に戻れ、貧しさに回帰せよということではない。恐らく私たちの求めるもの自体が大きくその過程で変わったのである。単純な過去への回帰によって癒されるほど、私たちは単純にはできていない。社会の機械化と高度化によって、分割不可能であったはずの固有の個人すら、消費と生産可能なものとなった。その意味において、個人主義それ自体もある次元では危機に瀕しているともいえる。
私たちには生物としての不条理性と矛盾性というものが本質的に備わっている。ここからは、なにがどうあっても逃れることはできない。それへの反発と回帰、超克を絶えず繰り返しながら曖昧に存在するのが人間というものの本質ではないか。そして、それらは私たちの極めて内的な言語化、可視化の難しい領域に滞留している。精神疾患とはそういった人間の曖昧性というものを許さない社会構造への、そうした内的な滞留からのアンチテーゼなのではないだろうか?
無関心と無知とは違う。まず私たちに求められるのは自分自身の内面へのダイアローグ(関心)であるとの意識を強く感じるが、どうだろう。

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