「近代/現代における宗教の私的領域について」

人間にとって、極めてプライベートな領域はいくつかある。性に関すること、信仰に関することは分かり易い例である。ここで私は信仰について、つまり宗教というものについて考えてみたい。
宗教というものを私/公という区分と領域とで考察をするならば、宗教という存在は複雑というほかない。それは明確には私/公とは分け難い存在である。宗教の中核的行為である「祈る」という行為は極めて私的なものではあるけれど、宗教に関する儀式なのは公的な性格を有しているものも少なくない。宗教は時として政治性を帯び、そうした性格を鑑みるならば宗教が私的なものであると断言することは適切でないようにも思える。宗教と社会、政治や文化が分かち難い例はキリスト教を見れば自明であるように、基本的にこれらは不可分な関係にあると思う。
だが、あえて宗教の私性というものについて考えてみると、これは近代以降の重要な変遷を見ることができると思う。なぜこんなことを考えるのかというと、少し前にホセ・カサノヴァの「近代世界の公共宗教」の一節を書き留めていて、それを眺めていると宗教という領域の持つ私性というものについて書いてみたくなったからだ。
カサノヴァは以下のように書いている。


……公/私の区別は、近代的な社会秩序のあらゆる概念にとって決定的であり、また宗教そのものはもともと、近代史における私的領域と公的領域との分化に関連している。……「宗教は私事である」ということは、二重の意味で西洋近代にとって重要である。……宗教的自由は、良心の自由という意味で、時間的に「最初の自由」であるばかりでなく、他のあらゆる近代の自由の前提条件でもある、という事実を指している。……つまり私的領域が行政の侵入や教会のコントロールから自由なものとして制度化されていることと関係しているかぎり、……宗教の私事化は近代性にとって本質的なものである。
……近代世界では「宗教が私的になる」ということはまた、近代を構成する制度的な分化のプロセスそのものを、すなわち、世俗的領域が教会のコントロールや宗教的規範から自らを解放するという近代の歴史的プロセスを、指している。宗教は、近代世俗国家や近代資本主義経済から身を引いて、新たに発見された私的領域へと避難することを、ますます強いられるようになった。近代科学ばかりか、資本主義市場や近代国家の官僚制も、あたかも神が存在しない「かのように」機能することができるようになった。このことが、近代の世俗化論の難攻不落の核を形づくっている。


これはかなり重要な指摘で、近代にとっては私/公という、内部に二項対立を含むこの構造こそが必要なものであった。これは家庭、企業、社会、政治というそれぞれ異なった領域を機能するように分化するために必要な構造であり、単位でもあった。宗教というものは、この役割機能において私的領域を担うものとされ、これは「良心の自由」、つまり基本的人権という近代世界にとって欠かせぬ概念と結びつけられたところに、ここでいう私的領域の本質がある。そして、人権と私的領域の分かち難い結びつけは近代特有のものである。そして、ここには個人主義という新たな概念とも相関関係にあると言える。宗教とはこれまでの公的なものから、近代的な意味における私的な意味と価値とを持って歩み始めたといってよい。
これは伝統的な宗教が持ちうる権威というものの去勢をも意味するものと個人的には思える。宗教の持つ近代的な私的領域性はあくまで近代世界の規範から抜け出ないものとしてのみ許されるものであるからだ。
私的領域というものの範囲は曖昧であるが、宗教というものが一つの基準、枠として機能するように制度化される中において、宗教は近代を生き延びたとも言える。近代が科学と合理主義の幕開けであるならば、宗教の持つ非科学性は真っ先に駆逐されるべきものであったが、近代のダイナミズムは、それすらも「私的領域」という範囲を新たに用意し、押し込むことで宗教という現象すらもある種の「制度」とすることに成功した、ともいえる。
それは宗教にとって、悲劇であるのだろうか。カサノヴァの言う「宗教」とは、もはや祈るための宗教というのではなく、一つの官僚組織のような存在である。彼はあえて「公共」という言葉を宗教の頭につけているが、社会の中にある私的領域を担う存在として、宗教の公共性は発揮されているともいえる。
現代において、宗教とはどのような存在であるのだろうか。宗教は必ずしもスピリチュアリティを有することをその成立条件とはしない。仏教に見られる論理の緻密さを引き合いに出すまでもなく、宗教とは本質的には論理性を有するものであり、祈るという行為はスピリチュアリティの発露であると同時に、極めて知的に高次な行動でもあると私は思う。宗教の中核的な行為は精神活動か肉体的活動であるのか、という点においてもまた別の二項対立的な構図があると気がつくわけだが、祈るという行為を中核に据えるならば、精神活動に宗教の本質的活動があると思う。私は宗教の本質は信仰にあり、行為にするならば「祈り」というものになる。では、その信仰と祈りとが近代のダイナミズムを経ていかに現代へと繋がっているのだろうか。
現代における宗教とは社会である、とどこかで見て「なるほどな」と思ったことがある。現代における人々が信じる主体とは、もはや伝統的宗教に分類されるものではなく、より社会的つまり制度化されたものに過ぎないのではないか、ということだ。具体的に言えば資本主義であったり、個人主義という概念であったりとする。宗教というものは、現代においてこのようなものをも含むと考えたとき、その中核にあるのは抽象的な精神活動としての「祈り」ではなく、より即物的なものであるかもしれない。それは金銭であったり、個人としての体験や実感といったものだ。
こういったものは、宗教というものの伝統的定義を越えているように思う。だが科学とも異なるとも思う。現代におけるこうしたものへの帰依は必ずしも熱狂を持ってなされるわけではないことにも大きな特徴がある。ある種の無関心、無感動を伴った帰依といえばいいだろうか。無反応性といってもいい。
ここまで考えると、宗教というものの私的領域性は独特な様相を帯びていく。これはそのまま近代から現代への連なりへと繋がっているのだろうか。


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