新・フェミニズム

柚木麻子の小説が結構好きで、最近新刊が出たそうで早速注文をして手元にあるわけだが、既刊も最近読んだ。「デートクレンジング」という作品で、主人公は35歳の女性で、彼女は義母の経営している商店街の小さな喫茶店を手伝いながら妊活をしている。主人公には大学時代からの親友がいて、親友は芸能事務所で女性アイドルグループのマネージャーをするキャリアウーマンだ。話のとっかかりは、この親友が結婚をしたい、といつもと違う調子で切実に希望し始めたあたりから展開していく。
女性にとっての転機は、結婚と出産とよく言われるが、柚木はそこに潜む女同士の微妙な関係の変化や伝統的な男女観や性別役割分業というものをも射程に収め、さらにそこにがんじがらめになったそれぞれの登場人物を描いている。
女はこうでなければならない、男はこうでなければならない、という性別や年代による不文律の息苦しさと異様さ、そして純粋なままではいられない大人の世界の虚しさを柚木は繰り返し著書の中で書いている。それは思春期を題材にした作品でもそうだし、今作のような30代半ばの年代を描くときもそうだ。読みながら思うのは、柚木が意図しているかは分からないが、これは「新・フェミニズム」的な様相を呈しているのかもしれない、ということだ。
柚木の関心は女同士の友情以上恋愛未満の濃密な関係性にあると思うのだが、そこには多分にフェミニズム的な要素がある。団結する女は、理不尽な社会規範(特に性別を基調としたもの)に立ち向かっていく。恋愛やセックスというものはその代表的なものであり、こうしたイベントによって女同士の関係性が複雑に変質していくことを、柚木は丁寧に時に息苦しいほど生々しく描くことによって、そのおかしさ、滑稽さというものを暗に突きつけてくる。登場人物たちはそれに抵抗し過剰適応し、足掻いていくわけだが、今作ほどこの性別を基調とした社会構造、結婚と出産を頂点とする男女のヒエラルキー的価値観への闘争を露骨に描いたものはなかったと思う。この闘争のフィールドにおいて、主役は「女たち」である。これは従来のフェミニズムの文脈において、当然のことであったと思う。社会における男女の規範において、女というものは常に搾取をされる側であり、弱者とはすなわち女であった。だが、柚木の描く社会の中において、より具体的にいうならば社会構造の中における男女とは、語弊を恐れずいえば「同じ文脈で弱者」として存在している。女も弱いが、男も弱いのである。男自身も、男らしさという呪いからは免れない存在であり、その意味で男もまた、この制度の搾取される側であり弱者である。
柚木は男を圧倒的強者として描かない。不遜さや尊大さは描くが、それでもどこかそれは弱さから出たものであり、本質的な強者=勝者というものは存在しない。男女は共に規範に囚われた存在であり、共に弱者である。既存の社会構造はこれらの弱さを触媒とした歪なものであり、男女の非対称な関係性の本質的なおかしさはここにある。
フェミニズムという概念をそこに対峙させるなら、もはや女性開放という掛け声そのものが旧時代の枠組みの再点呼に過ぎない響きすらあるのだ。柚木はあえて、男というものの弱さと「呪い」というものを描くことによって、この点を詳細に描く。主人公が婚活に血眼になっていく親友との関係に悩む中で、形容し難い感情に囚われ、それを夫に吐露する場面で、彼は非常に示唆的なことを言う。

「でも、それ、さっちゃんと実花ちゃんだけの女の問題っていうんじゃないと思うよ。結婚しなきゃだめだって思い込んで自分らしくないことを無理にして、昔からの友達と疎遠になるのって、それ、個人の責任や努力で解決しなきゃいけない問題なのかな?さっちゃんが、実花ちゃんが強くなれば解決することなのかな?俺にも関係あるし、母さんにも、うちの商店街全体にも、なんなら俺たちのお腹の子にも関係あるんじゃないの」

彼は続けて、それは差別と戦っていることだと指摘するわけだが、これを「男」に発言させている点が柚木的な世界観であると思う。
ここでは既に、性別という単位がそれほど意味を成していないことに気がつく。問題とされるべきは、より大きな主体である。
そして、フェミニズムという概念はこの部分を本質的に問題とすべき時に来ているのであると思う。私たちの社会が何を規定し、期待をし、その単位として性別を使い、種々の役割を付与してきたのだろうか?
そして、それらはいかにして私たちに幸福を与え、あるいは不幸せを呼び込んだのか?ここで男女という性そのものも問われ直さなければならない。一方的な弱者も強者もいないとすれば、私たちはいかなる存在として、ここにいるのだろうか。
性別という単位はその歴史的な役割を終えようとしているのだろうか。代わって立ち現れたのは個人という単位であるが、それはまたかつての性別のように新たな枠というものを私たちにはめ込もうとしていないか。これは人間そのものへの深い問いかけであると思う。
私たちが社会の中で存在するとき、全く無垢で無知でいられるのは僅かな瞬間だけだ。やがて男と女とに(社会的に)分化をしていき、関係性が自然と規定されていく。そして、男としての人生、女としての人生というものを好むと好まざるとに関わらず歩まざるを得なくなっていく。それらに疑問を投げかけるのがフェミニズムの歴史的なムーブメントであり、それは一定の役割を果たしたとも言える。
フェミニズムの岐路というものはこの辺りにありそうだと、柚木の作品を読んでいて思うのだ。

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