「この社会の片隅に」
「ILLUMINATIONS」という雑誌を読んだ。その中に階戸瑠李という人の「無題」のエッセイがあって、これが最も印象に残った。
一度は考えたことはないだろうか
自分が死んだらどうなってしまうのか。
私は幼い時、よく母に尋ねた
人は死んでしまったらどうなるの?
おかあさんは、死ぬことが怖くないの?
そして、ただひたすら死ぬことが怖かった。
冒頭から階戸自身が感じている死への不安と疑問とが提示される。
読み進めていくと、階戸自身の独特な死生観というか、この社会での「生き方」というものが垣間見える。
階戸にとって核となる思索の多くは、「無題」において、断片的に書いてあるのみだ。(シモーヌ・ヴェイユの『カイエ』みたいだな)
「生きるということは、死を捉えることである」
「死を捉えるからこそ、生が輝く、生きることに執着する」
「死を捉えなければ、毎日はたださらさらと流れていく」
「人はみんな死ぬのだから、今は生きるしかないのだと」
「死があるから、今を生きようと私は思う」
こうしてみると、生きるということよりも階戸にとっては、死そのものがより大きな問題であったのかもしれない。生というのはあくまでその中で浮かび上がってくるものだったのかもしれない。その価値を階戸自身は認めているのだけれども、彼女の足は死という領域から踏み出されてはいないような、そんな気がする。
そんな階戸の思索に重なるように、コロナ禍という現実が折り重なってくる。階戸自身の死へのある種の親和性を含んだ思想と、生々しい現実としてのコロナ禍とそれによる死というものが対位法のようになって、筋らしい筋のない「無題」に、奇妙なストーリーを提示している。これはとても不思議な感覚で、本作はエッセイでもあるし、半分は階戸の自伝的な要素も含みつつ、ある部分では作為的でもある。だがその作為ですらも、人工的なものというよりは階戸自身のシャイさ、自らの本当の奥深い部分を開示することのためらい、恥ずかしさを覆うための作為であって、「自分より良く見せよう」というような作為とは無縁のものであることも指摘しておくべきである。
ようするに、階戸は痛々しいまでに素直である。あろうとした、ということが「無題」を忘れがたくさせているといえる。階戸自身の持つ生々しさと、そこから見える社会(生活)の生々しさというものが本作の核である。そして、その裏側には、個人のそうした思索というものを一方では顧みないこの社会の無機質さ、無情さ、匿名性というものも示している。
コロナに感染した肉親との無味乾燥な別れ際と、そのための舞台装置への率直な憤りの表明を動とするならば、それでもなお変わらない今の社会の姿はどこまでも静である。読み込んでいくと、私は次第に両者に「病み」といったものを見出していってしまうが、「生きる」ということそれ自体が、ある意味では「病んで」いるのかもしれない。
階戸は死から生というものを転写し、そこに明るさを見出す/見出そうとしているようだが、それは表面から読むよりも難儀なことなのではないか。最後に彼女は日常の微細なものですら、抱きしめたくなるとして「生きる」ということ捉えているが、どこまでそれを実感できたのだろうか?
階戸自身は急逝をしてしまったそうで、その答えは聞けそうにない。
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