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シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」に寄せてーヴェイユを読み解く

シモーヌ・ヴェイユ著「重力と恩寵」を読みました。何年かぶりの再々読でした。ヴェイユに初めて出会ったのは大学生の頃で、知人から「あなたの考えはシモーヌ・ヴェイユに近いところがあるから、読んでみてほしい」と勧められたことがきっかけでした。その頃の自分の考えというものを失念して久しいわけですが、初めて読んだ時から、これは大変な思想家に出会ってしまったと思ったことを憶えています。私にとってシモーヌ・ヴェイユとは、20世紀における思想史の中において、特異な位置を占めていると思います。
ヴェイユの思想の特徴とは、それはその生涯といっても過言ではないのですが、「行動」というものに集約されているともいえます。ヴェイユの思想は、決して机上において生み出されたものではなく、生涯を通しての行動、特に政治的行動と宗教的生活とによって生み出されたと言えるでしょう。「工場日記」などはその代表例ともいえますが、ヴェイユの思想には、その実体験と生活とに裏打ちされた生身の経験を下敷きにしながらも、一切から隔絶されたような純化された「魂」とも呼ぶべき思索が垣間見えるところに、その特色があるといえます。
それはヴェイユ自身の眼差しから生み出されるものであり、常にヴェイユの目に映っていたものは虐げられ迫害される弱者であったことは、農業や女工に従事し、戦争が始まってからは躊躇いなく従軍した経緯を見ても明らかです。
さて、ヴェイユは生前にその著作や論文が大っぴらに公開されることはなく、死後に本書をはじめ様々な著作や論文が発表され、注目を浴びるようになっていきました。
今回本書を読んで改めて感じたことは、ヴェイユは宗教/政治とにその生涯を跨りながら、両者にある本質的な欺瞞を鋭く見抜き、そうであるからこそこの両者に与するということは遂になく、ヴェイユ独自の神という概念、あるいは魂からの行動というものを痛々しいまでに非妥協的に追求をした、ということです。ヴェイユの文章は徹底というものを要求するものであり、それはヴェイユ自身の政治的・労働による行動を通じて、この世界に存在している非人間性というものを自覚していたからでしょう。この徹底とは、「魂」の存在をする内面の深奥とでもいえばいいでしょうか。その純化と、ヴェイユ自身が述べているように、魂と神との間になにものも隔たることがないことを、徹底して求めたわけです。ヴェイユはなによりも、自分自身にそのことを課しました。ですが、それは道半ばで潰えた行為であったかもしれません。それはヴェイユ自身の妥協のきかない性質と、なにものにも徹底したものを求める姿勢とによって皮肉にも結実した一つの結果であったかもしれません。ヴェイユの文章というものは、長生きをする人の書くそれではありません。人間が社会の中で生きていく、生き続けていくためには狡猾な器用さというものが必須ですが、ヴェイユにおいてそれは全く思考の埒外へと追いやられていたといっても過言ではないでしょう。ヴェイユは哲学教師でありながら、政治的活動に躊躇いなく身を投じ、免職をちらつかされても一切動じることはありませんでした。
ヴェイユのこうした一種の病的な徹底というものは、本書においてもその文体から嗅ぐことはできます。
ヴェイユは神という言葉を多用していますが、彼女のいう神とは果たしてキリスト教における神であるのか、私は疑問を長年持っているところでもあります。ヴェイユのいくつかの論文には当然、神やキリスト教に触れたものはあるのですが、私にはどうもヴェイユの想定している神というものがキリスト教的文脈の神であるかは微妙だとの感触が拭えずにいます。ヴェイユは当然キリスト教を信仰をしていたのでしょうが、彼女自身は洗礼は受けず、その境界上に慎重に居続けたのです。ヴェイユはキリスト教の持つ欺瞞性、キリスト教的文脈の神という存在の持つ欺瞞性というものにどこかの時点で気がついていたのかもしれません。それは、世俗との権威的隔絶であり、それは行動とそれによる実践を躊躇いなく行い、それこそが哲学の使命であると信じて疑わなかったヴェイユにとっては、本質的な欺瞞と映ったのかもしれません。ましてや悲惨な戦争、過酷な労働というものに徹底して人々が苦しめられている中において、閉じたままの教会というとものについて、ヴェイユはどのような感触を持っていたのか、想像に難くありません。
「重力と恩寵」において、神という語は多用され言及をされますが、それは果たしてキリスト教における神であるのか、これは大いに問題とすべきものであると私は思っています。
本書におけるヴェイユの主眼とは、我々はいかにして自らの内に巣食う、この重力にも似た不幸というものから逃れることができるのか?というものでした。そのためには恩寵というものが必要ではあるけれど、そこに至るまでにはあまりにもこの世界と「私」という存在は脆く、その不幸というものは苛烈である、ということをヴェイユは自覚的に書いています。そして、そうでありながらも、痛々しいまでに極度に純化された魂の行為というものをこの文章から読み取ることができるのです。それはヴェイユ特有の思想でありながら、我々への普遍性というものへと還元をされていく構造を持っています。ここが、ヴェイユが20世紀思想史において特異な位置を占める思想家であることの最大の所以でしょう。

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