meritocracyと個人、その評価〜教育を軸に

岩波新書の本田由紀著「教育は何を評価してきたのか」を読む。著者の本田は冒頭様々な統計から、一つの傾向を指摘する。一つのキーワードは「読解力」。これは諸外国においては、読解力のスキルが高くなるほど国内における所得の不平等の度合いは小さくなるが、日本においては例外的なのだ。日本では読解力が極めて高いにも関わらず、格差の縮小には繋がっていない。この点において、日本は世界的な傾向から逸脱していると言える、と本田は指摘する。また教育格差についてもここ数年指摘されてきたことだが、各国との比較において日本国内の教育格差は「凡庸」な水準であるという。日本における教育格差の特徴は、家庭背景にあるのではなく、教育それ自体の中身や形にあるのではないか、と本田は述べる。
さて、教育それ自体の中身や形を云々する上で避けて通れないのは垂直的序列化と水平的画一化という概念である。さらにその議論の中において繰り返し指摘されてきた言葉こそが「能力主義」である。能力主義とは、戦後日本の教育学者にとっては批判すべき教育の現状について述べる際に使われる一方で、政府や経営者にとってはのぞましい雇用管理のあり方を語るものでもあった。能力主義という言葉は前提としている様々な意味や語用を含んだものとして社会に定着していると言える。
本田が提示する重要な見方は「能力主義あるいはその中に含まれる能力という言葉そのものが、日本の教育や社会の状況を記述・説明しているようにみえながら、実は日本の特質を把握する目を曇らせると同時に、むしろ垂直的序列化を促進すらしてしまう磁場のような作用を含み込んでいた/いるのではないか、ということである」。
詳細に述べると、能力主義がmeritocracyの訳語として定着したことが、「近代社会における普遍的な現象」であるという含意を能力主義という言葉にも付与する結果となり、これを「普遍性の誤認作用」と呼ぶ。これはさらに、言葉や指標の違いが教育や社会がたどる軌跡に影響を与える(「言葉による現実の規定作用」)ことにもつながっていく。
また能力という言葉は、生得・後天の両面を持つ個人の内在的性質の上下の差異を意味するものとして用いられてきたが、これは垂直序列化を促進・正当化してきた。(社会の能力主義的構成作用」)
以上を踏まえ、日本におけるmeritocracyを語る際に用いられる能力主義には、①生得的・後天的に獲得された要素を区別しない、②個人に内在する性質を意味する、③能力のみで用いられる場合、人間の全般的総合的な性質を意味する。そのため一元的な高低を想起させる。
これを本田は「日本的meritocracy」と呼ぶ。さらに現代において、この日本的meritocracyと並立しているのがハイパー・meritocracyである。従来の日本的meritocracyとは、学力という垂直的評価軸によるものを指すが、これに加え、ハイパー・meritocracyとは人間力などより包括的な垂直的評価や選抜を指す。この両者の複雑な絡み合いが、現代の日本におけるmeritocracyのありようである。
本田はこの後の章で、さらに色々と(特に教育について)述べているが、そこは割愛する。


教育とは、従来通りの感性に従って規定すれば外部からの働きかけによって個体の働きを一定の方向へ組織化していくこと、であるといえる。より厳密に学校教育に限っていえば、そこには多分に「あるべき望ましい人間像への教化」を含んでいる。それは評価というものと不可分な関係であるが、そこに「能力」という軸が働いていた/いることを本田は本書において指摘したわけだ。
能力は個性と並んで曖昧で多様な意味合いを含んだ言葉であるけれど、能力主義とは暗に実力主義という意味を持つ含んでいると私は感じる。そして、能力主義と自己責任とは表裏一体の関係であるとも思う。この辺りは個人主義とも関係が深そうなのだが、能力を境界として個人が社会の中で形作られ、評価を与えられていく働きは、自明のものとして私たちは受け入れている。
現代は、個人に最大の尊厳と権利を与える社会である。これは歴史的に見ても画期的なことで、現代ほど「個人として生きやすい」社会はないともいえる。だが、一方で「生きづらさ」というものがつきまとっているのも確かである。それはなぜか?
この辺りについて、私は教育学的に考えてみたく本書を読んでみたが、これは中々根深そうな問題である。
現代は個人主義の時代であると同時に、個人主義の歴史的行き詰りの時代でもあるとも思うのだ。そして、能力とはその個人を表す「平等かつ公平な」単位の一つでもあるはずだが、言葉の意味と範囲において、それはとても曖昧で多様なものである。そこに、従来の垂直的画一的な評価軸によって個人という単位を当てはめ、社会的に存在を「させ」てきた/ている。このことは、生きづらさというものを考える上で非常に示唆的であると思うのだ。
結局私たちは、個人としてさらに厳密に言えば一つの固有名詞として存在をしている、というよりも、その周縁にある各種の評価軸によって形や意味を与えられているに過ぎないのではないか。そのように思うと、生きている実感というものの現代的な空虚さと欺瞞というものが少しだけ皮肉にも形を伴ったものとして現れてくるのだ。

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